瀋陽日記ー党史

 日本から戻って1週間になるのだが、今日まで慌ただしく過ごした。とはいえ、その間に幾つかの本を読んだ。
 その中の一つが「中国民主改革派の主張ー中国共産党私史」(岩波現代文庫)だ。李鋭という老革命(老革命家)が共産党独裁の政治体制に苦言を呈する内容だ。大阪の紀伊国屋書店で「満州」関係の本を探していて、ふと目に着いたので買い求めてきた。
 本の扉の見返しに李鋭氏の略歴が載っている。
 1917年北京生まれ。(ご存命ならば97歳になられる)35年12・9運動に参加。37年中国共産党に入党。
 大躍進期には水利電力部副部長(副大臣)、毛沢東の秘書となる。59年廬山会議で「彭徳懐反党集団」の一員とされ職務解任、党籍剥奪、66年からの文化大革命期には投獄される。82−84年中京中央組織部副部長、82-87年中央委員、87-92年中央顧問委員。という起伏には富むが赫赫たる党籍が書かれている。
 この中でも、最も興味深かったのは、文革の時期のいくつかの出来事とその総括についてである。
 「毛沢東専制は、秦の始皇帝レーニンスターリンを加えたものである。人類社会の発展は二種類の道に他ならない。暴力と改良である(西方の改良と改革は一つの言葉[reform]である)。毛の性格の中では、どれだけの人が死のうが大したことではなく、特に知識分子を差別し、「知識が多いほど愚かになり、より反動になる」と言った。延安での清風運動以来、毛沢東は「不断革命」、「階級闘争」、「造反有理」を唱えて、人間の肉体から思想まですべてを支配した。だから下は「胡風反党集団」5,60万人の右派、上は国防部長彭徳懐国家主席劉少奇に至るまでの冤罪事件が作り出され、3年の困難時期(1959-61年)の餓死者4千万人があり、「文化大革命」という十年の大災難があり、国家は崩壊の瀬戸際まで追いやられていた。」(同署P248-249)
 こんな文を読みながら、大学3年の春先を思い出した。その頃僕は今も付き合いのあるS君にオルグられて、費用は彼持ちで「赤旗」を読ませられていた。その記事に幹部会員紺野某ともう1名が紅衛兵に三角帽子をかぶせられて自己批判を迫られていたという記事があった。「兄弟党員に対する仕打ちか」とS君は憤然としていた。僕はアンチ日共だったから、一種の痛快な想いでその記事を眺めていた。振り返ってみれば間違いなく「毛沢東盲従主義」だったのだ。しかし、その時は「あの毛沢東が、こんな理不尽なことをさせるだろうかと」と疑っている面が多分にあったのだ。今にして思えば、痛恨の極みである。
 長く生きれば、人生恥多し。