瀋陽日記ー休載
長い間、休憩状態になっていました。
今、ある事情があって、精神的、肉体的にオーバーワークの状態が続いています。
考えた末、暫らく、このブログをお休みにさせていただきます。
12月ごろになって復活できれば、復活したいと考えています。このブログを見て、励まして下さったり、叱咤してくださった皆様、ありがとうございました。再開の折には、またお目にかかれるよう、体力と持久力を鍛えたいと思います。ほんとうに有難うございました。再見!
瀋陽日記ー党史2
「文革」は今でも中国では敏感な問題である。
1966年から76年の毛沢東の死去まで、実に10年の長きにわたって、文革の惨劇は続いた。外国人の僕が、「惨劇」と書くのはそれほど生々しくはない文飾に近い響きがある。しかし、この国では国家主席を筆頭に、革命派(文革派)か下放されたものかの違いはありながら、血が噴き出るような記憶がある。
この問題はあまりに敏感であるために、誰も語りたがらない。
親友が裏切りあい、夫婦が裏切り、親子が裏切ったという例は枚挙に暇がない。失脚した薄某など父を公衆の面前で「反革命」の罪で殴ったそうだ。今にして思えば、その多くが誤解と曲解からくるものであったにしろ、人倫の道に悖る行為だったのだ。
先日、大学2年生と話したことがある。彼は、いま日本に留学しているのだが、父母からくぎを刺されている。「あなたは日本にいて、自由に考えたり発言したりできるが、父母は中国にいて、あなたの発言で苦境に追い込まれたりすることもありうるから、くれぐれも自重するように」と言われたそうだ。彼も、「改革派」的な発想に共感を持っていた一人だが、この面で自由にものが言えない面があるのも事実だ。
瀋陽日記ー党史
日本から戻って1週間になるのだが、今日まで慌ただしく過ごした。とはいえ、その間に幾つかの本を読んだ。
その中の一つが「中国民主改革派の主張ー中国共産党私史」(岩波現代文庫)だ。李鋭という老革命(老革命家)が共産党独裁の政治体制に苦言を呈する内容だ。大阪の紀伊国屋書店で「満州」関係の本を探していて、ふと目に着いたので買い求めてきた。
本の扉の見返しに李鋭氏の略歴が載っている。
1917年北京生まれ。(ご存命ならば97歳になられる)35年12・9運動に参加。37年中国共産党に入党。
大躍進期には水利電力部副部長(副大臣)、毛沢東の秘書となる。59年廬山会議で「彭徳懐反党集団」の一員とされ職務解任、党籍剥奪、66年からの文化大革命期には投獄される。82−84年中京中央組織部副部長、82-87年中央委員、87-92年中央顧問委員。という起伏には富むが赫赫たる党籍が書かれている。
この中でも、最も興味深かったのは、文革の時期のいくつかの出来事とその総括についてである。
「毛沢東の専制は、秦の始皇帝にレーニン、スターリンを加えたものである。人類社会の発展は二種類の道に他ならない。暴力と改良である(西方の改良と改革は一つの言葉[reform]である)。毛の性格の中では、どれだけの人が死のうが大したことではなく、特に知識分子を差別し、「知識が多いほど愚かになり、より反動になる」と言った。延安での清風運動以来、毛沢東は「不断革命」、「階級闘争」、「造反有理」を唱えて、人間の肉体から思想まですべてを支配した。だから下は「胡風反党集団」5,60万人の右派、上は国防部長彭徳懐、国家主席劉少奇に至るまでの冤罪事件が作り出され、3年の困難時期(1959-61年)の餓死者4千万人があり、「文化大革命」という十年の大災難があり、国家は崩壊の瀬戸際まで追いやられていた。」(同署P248-249)
こんな文を読みながら、大学3年の春先を思い出した。その頃僕は今も付き合いのあるS君にオルグられて、費用は彼持ちで「赤旗」を読ませられていた。その記事に幹部会員紺野某ともう1名が紅衛兵に三角帽子をかぶせられて自己批判を迫られていたという記事があった。「兄弟党員に対する仕打ちか」とS君は憤然としていた。僕はアンチ日共だったから、一種の痛快な想いでその記事を眺めていた。振り返ってみれば間違いなく「毛沢東盲従主義」だったのだ。しかし、その時は「あの毛沢東が、こんな理不尽なことをさせるだろうかと」と疑っている面が多分にあったのだ。今にして思えば、痛恨の極みである。
長く生きれば、人生恥多し。
東京―日記
息子たちが横浜と日野に住んでいる。帰国してから、二人の息子宅を訪問するのを楽しみにしていた。
8月22日の朝8時過ぎに愛用のプリウスで家を出た。この数日、夏には珍しい停滞前線の影響で各地で豪雨の被害が続出していた。特に広島市の北方では新興住宅地が山津波の被害に遭っているという報道がカーラジオから聞こえていた。幸いこの日は中部地方や関東地方には雨の予報はなかった。ウィークデイでもあったので高速道路はそれほど混んではいなかった。久しぶりの運転でもあるので、1時間半に1回ぐらいの休憩を取って、ゆっくり車を走らせた。13時前に諏訪湖サービスエリアに着いて、やや遅い昼食を摂った。妻は定番の様にざるそばの単品、僕は焼き肉定食にした。諏訪湖の水が妙に緑色が濃いのが気になったが、それは水草のせいではなく、豪雨によって流れ込んだ泥や土のせいだろうか。
そこから一路、甲府盆地に向かって下って行くのだが、いつもは良く見える八ヶ嶽や南アルプスが見えないのが残念だった。この道路は冬場のほうがきれいだ。今回は曇り空なので期待薄だと思って、ふと前方を見ると、遠くに裏富士が見えた。雲の晴れ間から顔を出している様は大きな壁のように感じられた。富士もやはり、冬場がいい。少なくとも晩秋から早春にかけて、山頂に白く雪を冠している姿が僕たちの意識の底に住み着いているので、黒い富士はなかなか容認しがたいのだ。
双葉SAで休憩し、土産を物色した。妻が信玄餅を購入した。次男の嫁が好きなんだそうだ。中国から持って帰ったジャスミンティーなどがあるのだが、妻は息子家族の好みなどをよく心得ている。
大月バス停付近や八王子に入ってから何か所か自然渋滞に出会って、八王子のインターを出たのは5時半を過ぎていた。次男の家族が待ちかねていた。
瀋陽日記ー剣道3
この瀋陽剣道友会と日本の剣道界との交流の話は今着実に進行している。剣道5段の友人がいて、大阪の剣道場とこの会とを結び付けようと力を貸してくれている。今年中には、8段の師範を中心にして、7段6段の猛者が信用を訪問してくれることになりそうである。このことはいずれ報告することになるだろうが、今日は前回の続きを描こう。
練習が終わって、剣道友会の有志が会食に誘ってくれた。我々二人のために、館長を始め6人のメンバーが集まってくれた。場所は中外の近くのレストランだった。会食が進むうちに、同行のフジさんから、「みなさんはどうして剣道を始めようと思ったのですか」と質問が出た。僕も内心聞きたいと思ったことだったので耳を澄ませた。
まず館長から、「僕はもともとテコンドーの教師だったんですが、この競技を年老いてまで続ける自信がなかったんです。老年になればなるほど円熟していくブドウを探していて、ある時、ネットで剣道を見つけたんです。その時、これだと思って、北京の道場に入門しました。2006年に習い始めて半年で初段を取りました。その時は、まだ生活の手段として剣道を考えていました。2007年に瀋陽に戻って道場を開きましたが、教えれば教えるほど、学べば学ぶほど剣道の奥の深さに見せられました。片手間ではなく、剣道の普及に自分の人生をささげようと決心しました。教えた生徒は200人ほどいます。全国の剣同教会とも連絡を取って、防具を下げて訪問すればどこでも歓迎して貰える関係ができました。私の妻も実は教え子の一人です。娘が生まれましたが、娘が成長して大人になったころは、実際に指導できなくても、稽古を見ながら指導したりする自分の姿が理想です。今は、世界大会で韓国の選手との試合で右ひざを骨折してしまったんです。」と言いながら館長はズボンの裾をめくりあげて、膝頭を見せてくれた。確かに手術の跡が数か所あった。
そばで秘書長役の傅さんが解説した。「館長は館の運営のために、百万元の貯金を使ってしまったんだそうですよ。」館長が語り継いだ。「今は、剣道の奥の深さに魅了されているんです。年を取って、身体で教えることができなくなっても、言葉で教えることができるようになりたい。教えながら、私も日々精進しています」
瀋陽日記ー剣道2
瀋陽剣道友会の人びとはとても爽やかな人たちであった。約2時間半の練習を見ながら、僕は時間をあまり長く感じなかった。道着に胴と垂れをつけて準備運動。素振り50回、対面素振り20回。技術指導:①面⇒払い胴、面打ち⇒払い面、②突き⇒払い胴、③面打ち⇒竹刀で受け、受けて胴、受けて小手。④面⇒受けて胴、小手の連続練習。⑤面打ちの躱し:間合いの取り方1後退、2右躱し、3左躱し。1時間経過したので、5分休憩、水分補給、小手を着けて再開。技術指導⑥小手⇒小手(「小手返しの小手」と呼ぶのか、「後の先」の小手)、相手を替えて約15分。黙想、互礼、面着け。相手を替えて掛かり稽古。師範を含め9人が一巡するまで30分。
4時から師範が一人一人に稽古をつける。弟子に打ち込ませ、何度か払ったりしながら、最後は面や胴などで決めていく。師範の熱気と格の違いが如実に出てくる。更に、師範の弟子に対する厳しい愛情が全身に表現される。
初段の高弟・張さんとの稽古は試合に近いスピード感と体技、体術を尽くしたつばぜり合いの後、面打ちへの返し面で見事に決まった。頭上に打ち下ろされた竹刀の鋭い音が「面」と発する声とともに技の決まりを教えてくれた。張師範は現在、剣道連盟の三段だが、今年十月の商談試験で四段取得が確実視されている。
二人目の傅さんは、長身、長髪の美丈夫である。坂本竜馬にどこか似ている。切れ長の目なのか長髪なのか。柔和に見えて芯には強靭なものを感じさせる。この人の立ち姿は静かだが凛として動じない物がある。「ああ、この人は伸びるだろうな」と僕に感じさせるものがある。張師範と数合、竹刀を打ちあった後、面打ちに踏み込んだところを躱され、胴を打ち返された。ほんの一閃というに相応しい早業であった。今日の案内人であるジョ君は体力に劣り、鍔競り合いから、跳ね飛ばされて道場の柱に背中を打ち付けそうになり、思い切って胴打ちに踏み込んだところをビシッと面が決まった。
師範の立ち居振る舞いには、「動中静あり、静中動あり」だ体現されているように見え、その雰囲気は稽古全体にも表れているようだった。(続く)