村上文学ー瀋陽日記

 先日、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』と『羊をめぐる冒険』を続けて読んだ。『ねじまき』の方は2度目だが、『羊を』は初めてかどうか確信が持てない。何しろ下巻がなくて、上巻で話が切れてしまっているからだ。
 『ねじまき』の中で間宮中尉の閉じ込められた井戸は満州里の近くの満蒙国境付近だった。また、ナツメグの生まれ育ったのは新京(長春)の動物園だった。そこでは、抗日士官候補生の大量虐殺が演じられた。そのこととワタヤノボルや私そして妻、笠原○○などが描く現代との奇妙な類似と背反、裏切りと引き合いなどが綾なすように出てきて、物語を進行する。
 そういう筋はさて置き、ずっと気がかりなのは、それはなぜ、「満州」なのかということだ。作者の中に(あるいは物語の中に)どのような必然性が込められているのか。いくつかの村上作品で「満州」が独特の暗示的なものとして登場する。それはなぜなのか。作者の個人的な体験にどう絡んでいるのか、しっかり考えてみたいことだ。