歴史ー瀋陽日記

 島の問題で、ネットや日本のニュースなどは中国の対日抗議デモ80カ所で5万人参加で行われたともいっている。しかし、昨日の中国のテレビニュースなどには殆どその問題は出てはいなかった。大きく取り上げていたのは、香港のテレビ局で、台湾のテレビ局も視聴者参加番組でこの問題を取り上げていて、参加者の口から、中台一体になって日本に対抗しようという話になっていた。
 今日は日曜日だから、参加者も多かったのだと思うが、問題は、柳条湖事件が起こった9月18日である。瀋陽がその現場であるので、明後日の18日まで、反日の動きは続くものとみられる。
 実は、10月の中旬に大きな行事を予定しているのだが、これから10日間ぐらいは状況をよく見ないといけないということになった。
 というのは、日本人会の行事などは、悉く中止か延期という状況なのだから、しょうが無いことだが、やはり来るべきことが来るべくして来たという感じである。石原が購入などと火をつけ始めてから、日中両国の右翼達が煽り続けた結果である。
 もう一度、ここは冷静に歴史問題を検討してみるべきでは無いかと思う。
 
 先ず、竹島の問題なのだが。ネットで調べた記事から引用する。

 《日本は1905年1月28日の閣議において、江戸時代には松島と呼ばれていた島を正式に竹島命名し、島根県隠岐島司の所管する旨を決定し、島根県知事は同年2月22日付の島根県告示第40号をもってその内容を公示した。翌年の1906年4月8日、島根県隠岐島の一行が鬱陵島を訪れ、鬱陵郡の郡守・沈興澤に「竹島が日本領になり、その視察の序(つい)でに鬱陵島を訪れた」と来意を告げた。

現在韓国政府は、1905年の竹島編入は無効であると主張している。韓国の国定教科書、中学校『国史』(下)に掲載された、竹島関連の記述にも韓国の主張を垣間見ることが出来る。

「・・・我が国を侵略しながら日本は獨島を強奪し、間島を清に与えた。獨島は鬱陵島に付属する島として、鬱陵島三国時代新羅の領土に編入して以後、我国の領土とされてきた。朝鮮の太宗時代に流民を防止するため、そこに住む人々を本土に連れ戻して、鬱陵島と獨島の管理が疎かになった。その後、粛宗時代に鬱陵島に出掛けた漁民安龍福が、不法に侵犯している日本の漁夫を追い払い、日本に渡って我国の領土であることを確認されることがあった。しかし、日本の漁民は密かに鬱陵島の木材を伐採し、魚を獲るなどしばしば侵犯した。だが、日本は露日戦争中に強制によって、日本の領土に編入してしまった。」(韓国国定教科書国史より)

果たして本当に韓国政府が言うように、竹島は強奪され、強制によって日本に編入されたのだろうか?竹島編入時期の日本・大韓帝国・ロシアの関係を見てみよう。・・・》
 記事はまだ続くのだが、丁度、韓国側の主張も書かれているので引用してみた。
李氏朝鮮(1392-1910)は、鬱陵島への渡航を禁じた。これには大きく分けて二つの理由があり、国内的には税金を逃れて島に渡るものが後を絶たなかったことと、対外的には倭寇による襲来から島民を守る為であった。この無人島政策は1438年から1881年まで続けられた。17世紀初頭、伯耆国(ほうきこく=現・鳥取県)米子の海運業者だった大谷甚吉(おおやじんきち)が、航海中に暴風に遭い、無人島になった鬱陵島に漂着した。彼は、新島の発見と考え、帰国後、同志の村川市兵衛とはかり、1618年に江戸幕府(1603-1868)から鬱陵島への渡航許可を受ける。鬱陵島はその発見から「竹島」や「磯竹島」と呼ばれるようになった。大谷、村川両家はその後毎年交替で鬱陵島に渡り、アシカ猟やアワビの採取、木材の伐採などを行い、両家の鬱陵島経営は78年間続けられた。当時鬱陵島へ渡るコースは、隠岐島から松島(現在の呼び方で竹島)を中継地にしていた。大谷、村川両家は、この竹島(旧・松島)の経営をも手がけていた。竹島が航路中の寄港地、漁猟地として利用されアシカ猟を行っていた記録も残っている。江戸幕府は松島に対する渡航許可も1656年に出している。(注意:竹島はむかし松島と呼ばれ、鬱陵島竹島と呼ばれていた。韓国もこの歴史的経緯・事実に対しては異論は出ていない)
1905年、明治政府は竹島島根県編入国際法的にも日本の領土になった。しかし日本の敗戦後、GHQ竹島を沖縄や小笠原諸島と同様に、日本の行政権から外した。これを口実に1952年1月18日、李承晩(イ・スンマン)韓国初代大統領は海洋主権の宣言ライン、いわゆる「李承晩ライン」を設け、韓国は竹島周辺海域の水産資源を得る事になる。これが日韓の竹島問題の始まりである。》
竹島問題(www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/ -)
の主要な部分の引用である。

また、外務省のこの問題に関するHPの一部「サンフランシスコ平和条約における竹島の扱い」では次のようになっている。

《6.サンフランシスコ平和条約における竹島の扱い
サンフランシスコ平和条約における竹島の扱い
1.1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。

2.この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。

3.この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。
 「・・・合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」
 これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。

4.また、ヴァン・フリート大使の帰国報告にも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の結論であると記されています。》

引用ばかりになったので、今日はここまで。