歴史−瀋陽日記

 デモ
昨日16日はじっと中国全土の様子を伺っていました。北京や成都、南部の都市ではかなり激しいデモがあったようですが、瀋陽は大人しいものでした。ある人が撮った動画によると、デモの参加者は50人ほど、その両側を警察官が2列に囲んで(サンドイッチに)行進しています。警察官が100人ほどでしょうか。歩道を野次馬やカメラマンが100人ほど追いかけています。思ったよりも静かなデモです。しかし、9月18日(明日)が瀋陽にとってはメインの日ですから、明日以降どうなるか注視したいと思います。


 歴史(続き)
 竹島(独島)の問題で最も考えるべきは、その年号である。
1905年は日露戦争だけでは無く、対朝鮮政策にとっても、重要な年である。所謂「乙巳保護条約」が結ばれた年でもある。次は北朝鮮の報道からの引用である。
《当時、日帝は朝鮮を併合するための最初の段階として、わが国を彼らの保護国にした。1905年11月17日、強圧的な方法で乙巳5条約をねつ造し、朝鮮の国権を強奪した。
 その後、日帝は、私たちの人民の高まる反日闘争を無慈悲に弾圧する一方で、政治、経済、軍事、文化など各方面で、わが国を徹底的に隷属(れいぞく)させるための策動を狂ったように敢行した。これらはすべて、朝鮮を完全に植民地化するための準備の一環だったと指摘した。》
《1905年と1907年の乙巳5条約と丁未7条約を通じて、李朝封建政府の外交権と内政権を強奪した日帝は、形式上だけ残っていたわが国の国家実体までなくすために、1910年8月22日に国際条約締結の初歩的な原則と規範を乱暴に蹂躙しながら、日韓併合条約をねつ造し、8月29日にそれを公布した。》
《乙巳五條約は第二次日韓協約、日韓保護条約ともいい、大日本帝国大韓帝国が締結した協約。締結後、大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収され、事実上保護国となった。日帝が40年余りの間に植民地ファッショ統治を行った期間、私たちの人民に強要した不幸と苦痛は筆舌に尽くしがたい。》(同労働新聞8月23日記事から)
 つまり、1905年は当時の大韓帝国の軍事権、外交権などを剥奪しようという画策が着実に進行していた年であり、韓国、北朝鮮を問わず、常識として誰でもが知っている歴史的事実の多くあった年である。その年に、日本の国内法に則って、島根県編入したとする歴史的文書を掲げたとしても、多くの韓国人・朝鮮人が納得しないの当然のことであろう。
 事柄の根底には「歴史認識の問題」がある。
 日本の高校の歴史の授業や世論には「侵略者として行った行為」(韓国や中国は「蛮行」と書くが)に対する認識が極めて希薄である。「従軍慰安婦」の問題についてもまたしかりである。この問題について、一般的に中国の新聞などの論調は「なぜ日本は西ドイツの首相がしたように、過去の罪悪を心から謝罪し、アウシュビッツで跪いて許しを請うたような反省する態度が取れないのか。」(地方紙・濟南日報・新華時評)といった物が多いように思う。
 つまり、中国にしても、韓国にしても、「歴史問題」に早々にけりをつけて、対等なパートナーとして、東アジアを一緒に経営していこうという意思を表しているのに、日本の為政者や世論は歴史的な「無知」(あるいは「黙殺」かも)から、相手の言い分を理解できないでいるのである。(続く)