瀋陽日記ー劉暁慶

 劉暁慶は「不老婆」(老いない叔母さん)とも「億万富姐」(長者姐さん)とも称せられ、国民のほとんどがよく知っている女優である。日本で言えばさしづめ「八千草薫」か「吉永小百合」といった女優を思い描いたら良いのだろうか。彼女はまた、知青(下放知識青年)から女優になった稀な人としても有名であるらしい。特に、彼女が「下郷」した先で体験したことを自伝的小説『我が初恋』に書いたことで、多くの人が黙して語らなかった、下郷中の日常が後生の世代にまで知られるようになった。
 彼女の名を教えてくれた学生は「母が少し後の世代だが、共感することが多いと言って、彼女の本を愛読している」と言い、その中の一つの逸話を語ってくれた。
 「下放先の四川省達県専区宣漢県農場では、冬の寒さは並外れていた。知青の炊事場では朝粥を大釜で煮るのだが、越冬する蝿がその大釜の周りに真っ黒になるほど溢れていた。粥の蓋ばかりでなく、粥の中にも蝿の黒い塊が一杯散っている。その粥を分けて貰って食べなければならなかった。その他には食糧など何もなかったのだから。」と本の一節の又聞きを語ってくれた。
 1950年生まれの劉暁慶は1970年の年初、四川省宣漢県の農場に知青として派遣されることになる。その70年、僕は封鎖中の大学と大阪の私学の常勤講師というどっちつかずの立場を見切って、兵庫県の教師として尼崎に赴任することにした。その思想的な動機はいわば「私的な下放運動」だったと言っても良い。つまり、庶民の中に、普通の庶民・労働者の子弟の中に、被差別の立場にある人たちの中に入っていこうというものだった。だから、この「上山下郷」(下放運動)には並以上の親近感を持って数十年を過ごしてきたのだ。しかし、実態についてはほとんど知らなかったと言って良い。しかも、現在、53才以上の人(都市住民)なら誰でもが経験し、他の人には言えない重い物を持ちつっづけているということにも気づいてはいなかったのだ。