中谷風の瀋陽日記

 清・永陵3
 浅田次郎の小説の題名が間違っていた。「中原の虹」だった。読んでから半年も経っていないと思うのだが、記憶力がますます弱くなっている。
 さて、永陵の中はいまは整備されているが、世界遺産の指定前、あるいは戦前(満州国の時代)はどうだったか、想像しかねる所があった。多くの展示物の中で、日本的なものを一つだけ見つけた。それは、ヌルハチが腰かけて、長白山の神の託宣(この地から国を建てよ)を聞いたという樹齢4百年の楡の木の写真を映像で残していたのが日本人カメラマンだった。勿論名前など書いてはいないが。今、塚の頂上に生えているのはその子か孫の木で代替わりしたものだという。(初代は落雷で焼けたとか)
 この陵の敷地は、北陵や東稜に比べても、10分の1ぐらいしかなく、恐らくは少数民族の族長にすぎなかったヌルハチが地方政権にしろ、政権らしきものを築いた最初の地らしい小ちんまりとした纏まり具合だった。小ささが返って好感を持たせる所だった。それは、少し離れた、ヌルハチの生家などを見た時にも感じられ、身近さ、貧しさ、とともに私に感銘を与えたものの一つでもある。
 見学の後は、満州料理の満漢全席の半分(?)8皿8椀の料理は大層な贅沢であった。勿論、満州8旗にちなんだ命名なのだが。満腹のお腹を抱えて帰路は爆睡するばかりの一行であった。

 清・永陵
 昨日は、途中で回線が込んできたので、書いた物がアップしなくなった。尻切れトンボでしかも、同じ記事がダブルで出てくる。これは一体何のこっちゃ。
 閑話休題浅田次郎の小説に、張作霖と張学良の親子を主人公にした『天空の虹(?)』があるが、その中に、張作霖が皇帝の元にしか存在しない、玉を求めて、密かに腹心と永陵の玄室に入り込み、その玉を奪う場面がある。この場面を読んで初めて、清の太祖ヌルハチの本物の墓は、撫順の奥地にあることを知った。
 瀋陽にある、東陵は学生に言わせると「何もない偽物の墓」なんだそうだが、本物の墓に案内してくれるということを聞いて、楽しみにしていた。当日は、2名の学生は父母が夫婦で、1名の学生は両親ともに仕事だとかで単独で、そして、私たち夫婦の9人のツアーになった。運転手を入れて10名が、ワンボックスカーに乗り込んで出発した。聞いてみると、車は会社のもので、運転手は一人の学生の父親の友人とのこと。かなりの人の手を煩わせていることを実感した。
 瀋陽から高速で撫順へそのまま高速を走らせて、瀋陽の水瓶になっているというダム湖(大伙房水庫)を超えて、渾河の支流の蘇子河を遡って新賓満族自治県に入ったところに、永陵はあった。里山のような小山をバックに、永陵はあった。ガイドの説明によると、その小山は14の頂を持っており、それぞれが14人の皇帝を表しており、山(峰)の大きさが統治の年数を表しているのだそうだ。
 とすると、乾隆・康熙の治世も、溥儀の短い統治もあらかじめ先祖が墓所を定めた時に決まっていたことになる。運命決定論者ではないが、危うく信じてしまいそうになる。
 以下、後日。