中谷風の瀋陽日記

 感 心
 中国に来て感心したことが数多くある。その第一に挙げられるのは、「年寄りを大事にする」ということだ。バスに乗っていて、どんなに混んでいても、老人が乗車してくると、若者が率先して席を譲る。ほとんどの年寄りは“ありがとう”か何か声を掛けて席に座る。10人に1人位は辞退する人もいるが、日本のように「年寄りに見られた」と憤然とする人などいない。これは儒教の「孝養」精神なのだろうが、この時代にそれが生きているとは信じられなかった。日本ではもはやめったに見られなくなった現象だ。ある人に聞くと「若者が席を譲らないと、その者の評価がグンと下がる。周りの大人たちがみな若者の行動を注視しているのだ。」と言っていた。無言の圧力がバスの中に満ちていたのだろうか。ただ、若者のさりげない行動が実に爽やかだったのに。
 二番目に「教師節」がある。教師に感謝する、年1回の記念日(お休みではない)である。以前にも書いたが、突然、感謝の言葉を添えたプレゼントをいくつか貰った。若い頃、生徒と一緒に汗や涙や時には血を流した日々を振り返ってみると、この地は生徒と先生の間には画然と隔たりがある。極端に言えば「三歩下がって師の影踏まず」に近い感受性がある。時には、大男の生徒が小さな女先生に叱られて、首を垂れ嗚咽していたりする。それはそれはこちらの叱責はとても厳しい。私など、その言葉が理解できたらきっと卒倒してしまいそうだと思う。それだけ、手厳しい言葉が機関銃のように飛び出している(ように見えるのだ)。これも、日本では絶えて久しい現象ではないだろうか。叱責だけではなく、励ましている場面にも遭遇するのだが、叱責の場面が強烈な印象として肥大化してしまったようだ。私の心の中では。