訃報ー瀋陽日記

 家人が旧友の逝去を知らせてきた。朝、トイレの前で倒れているのが発見された。その時はすでに冷たくなっていたそうだ。彼とは40年を超す付き合いであり、同僚としても、二つの学校で計18年ほど一緒に活動した。こう書くと同年代と見えるが、彼の方が7歳年上である。彼には民間の経験があり、教師になったのは30歳を過ぎてからである。所謂安保世代の中核的人物で、京都の教育系大学で自治会委員長をやっていた。また、立命の某マル経ゼミの3羽ガラスとしてその世界では著名な人物であった。解放教育の先進校で私が1年早く教師をしていたので、教師の世界では私が1年先輩であった。しかし、他のすべての面で彼は私の先輩であり、時にはライバルであり、そして「戦友」でもあった。1つ目の学校では、彼は「部落問題」を軸に活動していて、私は「朝鮮問題」を軸に活動していた。その学校を彼が「強制配転」で出て行った先の学校に、翌年私が「強制配転」で赴任した。そこでまた、約8年同僚として過ごした。互いの持ち味を生かして、主として解放教育の分野でその学校に新風をもたらした。以後、進む道には若干の違いはあったが、彼との友情は変わらなかった。彼の反骨の姿勢は一貫して変わらなかった。それは、晩年の識字学級の存続を巡って地方自治体を提訴する動きまで一貫していた。尊敬すべき人物であった。この地で経験したことなどを、最も話したかった人物であった。冥福を祈る。