旧友−日本日記

 日本に戻っている機会に、旧友に関することを幾つか書きたい。
 まず、Yさんのこと。Yさんは若い頃解放教育の先進実践校として有名であった工業高校での同僚である。同僚と言っても、Yさんは60年安保の指導者の一人として、京都府学連で活躍した活動家であり、私よりも七歳ほど年上であった。たまたま、この工業高校に採用されたのが私の方が1年早かったことから、年下の私のこともある面では尊重してくれていた。
 その彼が、11月末に亡くなった。突然の訃報に驚いたが、瀋陽から帰ることもできず、妻に頼んで弔電だけは打ってもらった。
 やっと、Yさん宅を訪問できた。奥さんは孫の子守でかなり忙しく、0歳児の孫が昼寝をしているそばで、この数年のYさんの状況と健康状態の推移を語って下さった。
 元々、彼も私も愛煙家で、彼はショートホープを吸い続けていたが、3年前頃から肺気腫となって、肺の機能が極端に低下していたようだ。それでも、散歩を続けたりしながら、身体には留意していたのだが、とうとう昨年6月頃から酸素吸入器を持っていないと外に出歩きもできなくなってきた。そうなると精神的にもめっきり病人らしくなって、身体の衰えも急速に進行したそうだ。亡くなった当日は、たまたま孫の誕生日間近で、その祝いをすると言うことで、息子の家族も来訪することになっていた。奥さんが孫の相手しているうちに夕方になり、外から室内に戻ったとき、自室で休んでいたはずのYさんがトイレで息を引き取っていたのだそうだ。
 線香を上げたとき見た遺影はまだ比較的元気だった頃の写真で、独特の口調で彼が論争を挑んできそうな気がした。彼に中国ことをいろいろ話したかったのにと思うと残念でならない。