戦争3−瀋陽日記

 真夏の寝苦しい夜を冷ますように、男の話は続いた。
 「初年兵いうもんは、惨めなもんや。古兵の使い走りやら、食糧の現地調達なんかをさせられる。そりゃ中国の農民が赤化するのも無理ないて。食糧が無くなったら、索敵行動とか言うて、農家に押し入って、そこら辺の牛や豚、羊、鶏といったあらゆるものを略奪してくるんやから」「なんか、三光作戦という言葉を聞いたことがあるけど、奪い尽くし、殺し尽くし、焼き尽くすという」「そんな風に言うたかもしれんけど、惨いこともいっぱいした。初年兵が前線に着くなり、古兵が『お前ら人を殺したことないやろ、今から試し切りをさせてやる』と初年兵を集めて、杭に縛られた中国人捕虜に突撃させたもんや。『人間や思うから、恐ろしいんや。丸太やと思え』って言って・・・」「わしら足は震えるし、銃剣で人を刺したことなんかないから、恐々突く、古兵は『やり直し』といって何度もさせる。捕虜の中国人は急所を刺されないから、悶え苦しんで、それでも最後は息絶えた。それでも、突撃は終わらなかった」
 男の話は、そこで何の前触れもなく止まった。その時、私は、この男が今までこの話を誰にもしたことがなかったのではないかという気がした。息子がいても、まさか息子にこのままの話をすることはなかったろう。たまたまの一夜の出会い、全く色っぽくはないのだが、只の行きずりの人間のような出会いの軽さが、その一期一会が彼の口を軽くしたのではないかと感じていた。
 
 先日、撫順の戦犯収容所のことを思い出していた。そこに収容されていた軍人のほとんどが、同じような経験をしていた。だから、中国側から、十分な食料を与えられた時、殺す前に喜ばせるのだと思ったり、自己批判しか要求されない優しい対応に、どう考えたらいいのか戸惑いを隠せなかったという記述が至る所にあった。多くの日本人俘虜達がその人間的な対応に感激して帰国したのは事実なのだ。日本軍の対応と中国軍の対応の違い、彼我の差はやはり大きいと言わざるを得ない。このことを書きたかったがために、古い記憶を引きずり出してこの稿「戦争」を書いた。