懐旧3ー瀋陽日記

 今朝、起きてみると雪だった。昨日の昼はまだ小雨状態だったが、夜中に急激に冷え込んだらしい。今晩の予報はマイナス7℃だから、やっぱりここの気温は油断ができない。明日の最高気温が0℃だそうだから。妻の話によるとこの寒気が、日本に行って、12月並の寒さになるのだとか。皆さん気を付けてください。
 さて、追悼文集の最終章を掲載しようと思う。

 4 畏友のことなど
 少し長い前書きになったが、私は彼に報告するような心持ちで前文を書いた。この中国での体験をいろいろな人に報告したかったのだが、彼こそがまず最初に報告し、意見を求めたかった一人である。恐らく、いつもの鋭い切り口で私が考えていなかったような側面から切り込んでくれたことであろう。彼を目にしないで、心の中で対話をしているものだから、つい言葉が愚痴っぽくなってしまう。Yよ、許してくれ。
 尼工から尼北へ配転になったとき、迎えに来てくれたのがYだった。彼は前の年、第2次強制配転の対象になって、尼北へ移っていた。尼工分会員の車で送って貰った立花会館の前に彼が当時の尼北の分会長と二人連れで待っていてくれた。それまでの敵地に乗り込むような肩の力が一気に抜けたのを今もありありと覚えている。
 Yを学年主任にした尼北33期生の学年担任として、再び一緒に仕事をするようになった。しばらくは、二人一体になって部落研、朝文研の組織化と「同和委員会」の活性化などの仕事に取り組んだ。その頃の私達のスローガンは「生徒はどこにもいる」であった。朝文研の活動については、恐らくカン君かキム君が書いてくれるだろうから、今回は部落研のことを書いておきたい。
 近隣の地区から毎年数名の出身生徒が尼北に入学しているのだが、10数年前に一度組織化されたことはあるが、その頃は全く未組織の状態であった。彼は中学校の時から活動的であったKSとYAの二人の女生徒と連絡を取り、部落研を組織しはじめた。週に一回の割合で社会科研究室に集めて、日常的な出来事についていろいろ四方山話をするという進め方であったが、徐々に人間関係を広げ、中学校では余り積極的ではなかったKGやMNといった女生徒も顔を出すようになっていた。本来、この地域の生徒らは市尼に進学希望だったのが、総合選抜制という入試制度の年度ごとの微調整によって、男子生徒は市尼と尼崎稲園に、女子生徒は尼北に分けられることになったのだった。そういう入試の事情もあって、当初、女生徒たちの警戒心が強く、集まりにはなかなか顔を出してはくれなかった。しかし、1年生の秋頃には、4,5人の生徒が顔を出してくれるようになった。3年生の夏頃までその会は継続したと思うが、朝文研のように、みんなの前に立って、問題提起するという公然とした活動にまで踏み切れなかった。その当たりの判断は彼に任せていたが、「私達は、宣言することよりも自分なりに逃げないでしっかりと考えていくことが大事だと思う」と言っていたリーダー格の女子生徒の考えを彼が大事に受け止めて、余り無理をさせないようにしようというのが彼の判断だったように思う。そのことでは、今思い返してみても間違いではなかったという思いはあるが、ひとつの痛恨事がある。
 当時の入試制度は10%の学力優先枠と90%の地域枠があったのだが、その10%の学力枠で入学した部落出身の女生徒MSがいた。その、MSにも声をかけてみようとKSやYAに言うと反対された。「MSの家族はすでに地域を出ていて、私らにも声をかけたりしないでくれと親から言われている」というのがその理由であった。私達はやむをえず、声をかけることを控えたのだったが、それが結果的には裏目に出た。高校を卒業して4年目の、大学卒業を目前に控えた11月頃、MSが投身自殺したという悲報を聞いた。彼と二人葬儀に列席したが、自殺の原因については誰も何も言わなかった。遺書もなかったという。しかし、参列者の無言の哀悼の表情の中に私も彼も「部落問題」を感じ取っていた。二人が期せずして一致したのは、就職活動か恋愛問題で彼女は「初めて部落問題に直面した」という想定であった。恐らく、地域を出て、勉強すれば部落から逃れることができるという親の意識の庇護の元で彼女はひたすら勉強して国立大学に進学したのだ。そういう彼女にとって、高校時代の「同和教育」はきっと余所事であったのだろう。自分のこととは考えていなかったのではないか。あるいは、知っていたとしても、個人的な努力で乗り越えることができると考えていたのではないだろうかというのが、私達の苦い結論だった。そして、この時も、部落問題の底の深さを思い知らされた気がしたものだ。葬儀の場に列席していた人びとの多くは地元の地域の人びとだった。誰もそのことは言わないが、誰もがそのことを知っているという奇妙な沈黙の中で静かに読経の声だけが流れていた。
 その後、2回同じ学年集団の一員として苦楽を共にするのだが、私は思うところがあって、管理職への道を歩むことにした。尼北を去るに当たって、彼と今は亡きNに自分の所懐を述べて、了解を求めた。二人とも反対はしなかった。しかし、二人ともそれぞれ自分の進むべき道を行くといっていた。彼もNも他と隔絶した道を歩いた。そして、先に逝ってしまった。二人にはぜひ今のこと、中国のこと、これからのアジアのあり方について聞いてもらったり話し合ったりしたかった。今度はいつ会えるだろうか。果たして私のことを覚えてくれるだろうか。黄泉の国で。