北京5ー瀋陽日記

 暮色を濃くした南鑼鼓巷をぶらぶら帰りながら、2,3の店を点検した。日本料理の店もあった。場合によっては明日の晩はそこでと考えていた。というのも、四川料理の注文の時、Kさんが魚料理に関心があるようなそぶりだったのに、全く注文しなかった。僕は、瀋陽に来てから、好んで魚料理は食べない。生きているほとんどの魚は川魚であって、鯉系、鮒系、草魚系といったような魚が中心なのだが、海の魚になれている僕には今ひとつ口に合わない。だから、旅に出てもめったに魚料理を取ろうとは思わない。だが、Kさんは父親の転勤で少女時代を数年ハンブルグで過ごしたことがあり、その時に魚がとても好きになったと言っていた。ドイツ人の中ではまだ、魚好きは少数派だと言って笑っていたことがあった。そんなことを思い出して、明日は魚にしようかなと考えつつ、ホテルに戻った。

 明日は8時半に朝食をと約束して、部屋に入って、バスを確認すると、残念!ここもバスタブがついていなかった。咳もひどいし、体を温めて、早く寝よう。テレビも正月番組らしいワイドショーをやっているが、じっと見る根気が無い。すぐ消して、布団に入った。
 今日の日本の全国紙の投書欄に僕の文章が載っているはずだけど、どうだろうかと気にしているうちに眠りについた。眠ったと思うと、激しい咳に見舞われた。ああ、今夜も安眠とは出会えないのか。
(以下に、全国紙にだした文章を一部紹介する。)
 団塊の私 中国でもう一仕事
                 日本語教師(中国)
 中国・瀋陽日本語教師をしている。仲間の半数が60歳以上。私も退職後の第三の職場にこの仕事を選んだ。団塊世代の常として、多くが大学紛争を経験し、理念と現実の不一致に悩みながら、それぞれの職場の第一線を走り抜けてきた。多様な人生経験を持った人たちが、この地に集まっている。
 研究者や技術者として先端の学術を伝えようと中国に来た方も多い。魯迅の「藤野先生」の一節のように、「小にしては」中国のため、「大にしては」学術のため、身を異邦に置こうと志した人々だ。子会社の管理職として働く中年や若い人たちも多い。環境や医療など、中国が遅れているといわれる分野での貢献を志している。
 ともに生きるアジアの一員として中国との縁を深めたい。そう願い、日々ささやかな努力を怠らない日本人が中国にいる。そして危機の時こそ、互いを尊重し合う草の根の交流が求められると考えている。完全に引退する前に、もう一仕事してみよう。私もそう決意している。