追悼2-瀋陽日記

 Y氏の追悼文の中でもう一つ、心に残ったものがある。
それは彼の恩師について記した遺稿である。
 それは「人生を決定づけた恩師」という短いエッセイなのだが、教育者としてのあり方を彼に教えた真に「恩師」と言うべき方の面影を恩愛と尊敬と感謝の情で書き綴った文章である。
 《・・・中学三年になった。相変わらず問題児ではあったが、さして努力したわけでもないのに、学校の成績は上位にいた。腕力で人を制すること虚しさを覚えていて、貧乏生まれの悔しさを晴らす一つの方法を勉強に見いだしていたのかも知れない。高校進学が当たり前のような風潮が出始めていた頃でもあり、秘かにそれを夢見てはいた。・・・ある夜、恩師から「進路はどうする」と訊ねられる。友人は、当然のように「高校へ行く」徒答える。私は「就職せざるをえない」と答えるしかない。先生は、しばらくの沈黙の後「そうか、それなら電電公社へ行ったらどうか」と仰有る。就職先など考えてもいなかったときだ。生返事しかできない。何日か後、先生は、電電公社の入社試験の問題を差し出され目を通すように促される。・・・恐らく先生は、私の気持ち気付かれたのだろう、私の知らないところで、父や母を説得して、高校進学の道を切り開いてくださったのだ。高校へ行けば日本育英会奨学金を受けられ筈だ。授業料免除の方法もある。入学に必要な諸費用も教科書代も自分が負担してもいい。「とにかく進学させてやってくれ」ということだったらしい。父は頑固に拒否していたらしいが、兄が了解し、本家の伯父の許しもあって、父は仕方なく応諾した次第。・・・》
 長い引用になったが、彼と私の年齢差は七才である。赤貧洗うが如き情況から高校・大学と進学できたいきさつを、感謝の念を込めて書き綴っている。この恩師の姿勢が彼の人生観・教育観の根底を支えていたように思う。「いろんな人に世話になって、支えられて今がある。だからその恩返しをせなあかんと思ってる。直接当人にという形ではなくて違った形で」とよく言っていた。