証言ー瀋陽日記

 今学期も残すところ10日ばかりになってしまった。といっても、他校は7月初旬から長い休みに入っているのだが、この学校ばかりは、三年生のみ例年8月中旬まで授業をしてきた。
 新三年生は彼らが学校を去った後、8月下旬授業に入っていたのだが、今年は「ゆとり教育」の影響で、9月始めに全学年が一斉に授業を始めることになった。保護者にしてみれば、嬉しさ半分、当惑半分と言ったところかな。しかし、学生は勿論喜んでいる。旧3年の二クラスだけが寂しく、授業を続けていると言う具合だ。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

⑯ 朴永心は三枚の写真の中心人物はまさに自分であると自からの口で認めた。裸の写真を撮られたとき、朴永心はまさに雲南省の松山の「慰安所」で脅迫され「慰安婦」をつとめ、日本軍のために性を提供する仕事をしていた。
   一人の朝鮮の娘がどうしてはるか千里の中国雲南にまで来ることができ、日本人のための性の奴隷となったのか。このことは、やはり75年前のある「募集」から説き起こさなければならない。
*朝鮮南浦市(現北朝鮮南浦直轄市)1919年
⑰ 1921年12月15日、朴永心は朝鮮南浦市江西区域にある石二洞で生まれた。彼女には二人の兄と一人の妹がいた。彼女は小学校に2年上がっただけで文化程度は高くなかった。幼少の頃に母親が亡くなり、長女であるため朴永心は家を離れて他所の裁縫店の雇い人になった。


   雇い人の生活は細々しく煩雑だが、給料は安かった。しかし、この仕事は当時、朴永心が家計を助ける唯一の収入源だった。そこで彼女は三年間歯を食いしばってがまんした。
   1938年になって、日本の警察が朝鮮で使った偽りの「募集情報」が彼女をだますことになった。
*日本の警察が朝鮮でばらまいた偽「募集情報」1938年