証言3ー瀋陽日記
うっかりしている間に、8月も3日になってしまった。
この間、8月下旬に行く、ハイラル(ホロンバイル)までの飛行機の搭乗券を取るのに手間取っていた。夏のモンゴルの草原とノモンハンの旧跡を訊ねる予定である。
片道だけで990元という高値でしか手に入らなかった。夏のハイラルは人気が高く、しかも1日1便しかないので、この値段でしか手に入らなかった。旅行社のコウさんは頻りと飛行機をやめて、列車の旅を勧めたが、片道18時間の列車の旅は妻には少し強行軍になってしまいそうだ。
そういうわけで、2人往復3960元を支払って、やっとEチケットを手に入れてきた。
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*日本の警察が朝鮮でばらまいた偽「募集情報」1938年
⑱ このポスターから、この「白衣従軍」の仕事の内容は明らかに日本軍営の後方の病院で看護婦に付くことだと読みとることができる。
「募集ポスター」を出したのは日本赤十字会である。その後、朴永心は日本の警察の口から、今回の仕事の場所はシンガポールであると知らされた。日本の警察(註①)は、従事する仕事はある種の接待の仕事であって、仕事は簡単で給料も手厚いとだけ言った。
朴永心は看護婦の訓練をしたこともなければ医学の知識もなかった。日本人は彼女を看護婦にしようとか、前線の看護婦にしようとしてこの計画を立てたのだろうか。
註①日本の警察:朝鮮総督府の警官。勿論、ほとんどが日本人である。
⑲ 日本人は、専門の看護婦不足で、本国は放っておいて、こともあろうに朝鮮にまで募集に駆け回っていた。これはとてもおかしな話しではないか。
だから、ここで我々は数多くの若い少女たちに、途方もない肉饅頭の下に大部分は更に大きな陥穽があることに注意を促す必要がある。
*朴永心の像
⑳ しかし、当時の朴永心は全く気づかなかった。
彼女はこの種の給料が高い仕事をとても必要としていた。それは間違いなく父親を助け、家の逼迫した生活を大いに改善できるはずだから。
朴永心は余り深く考えないで、シンガポール行きの仕事に応ずると答えた。
1938年8月、朴永心と他の数人の少女は幌付きの大型トラックの上に座っていた。だが、彼女らの目的地は決して日本の警察が言っていたシンガポールではなく、中国の南京だった。