南京ー瀋陽日記

 南京と聞くとつい過敏にならざるを得ない。かつて、南京から来ていた留学生に聞いたことがあるが、当地では日本語は余り人気がない。その理由は言うまでもなく、「南京虐殺」の遠い記憶にある。遠い記憶と言っても、1937年12月17日から約6週間にわたって、焼き殺し強姦し略奪するという残忍な所行が市内全域にわたって行われ、市域の約三分の一が灰燼に帰したのであるから、肉親や祖先に被害者を持っている人は旧市民のほとんどであると言えるからである。さらに、中国の歴史教育もあるが、反面教師として、日本の政治家や一部の「歴史家」たちの事実を事実として認めたがらない言動が余計に南京市民の憤激を買ってきたように思う。
 名古屋市長の河村某の「南京虐殺はなかった」発言などは、当の南京市の交流代表団に向かっての発言であっただけに、一層の憤激を呼んだものだ。このことは、今年の3月頃のブログに書いたので、くり返さないが、一言、誰もが事実の前には謙虚でありたいと思う。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*南京侵攻、空爆、虐殺死体、破壊された建物などの映像(その多くは日本側のカメラで撮影されたものと見られる。)
㉑ 1937年末、日本軍は上海を占領するとすぐ南京に迫った。国民党軍は南京の外側の砦にあって、日本軍と多くの激戦を行った。しかし、数多くの経路から侵攻する日本軍を押しとどめることができなかった。
   1937年12月13日、南京は日本軍に占領された。日本軍はこの南京地区で、華中方面軍司令官松井石根の指揮下で、手に寸鉄も帯びない南京の民衆に対して、焼き、殺し、強姦、略奪と言った「なさざる所無き」所行を6週間の長きに渡って行い、この世に例を見ない悲惨な大規模な虐殺を行ったのである。

*南京侵攻、空爆、虐殺死体、破壊された建物などの映像(その多くは日本側のカメラで撮影されたものと見られる。)
   日本軍が南京に侵攻した1ヶ月間に全市で2万件の強姦、輪姦事件が発生した。少女は言うまでもなく老婦に至るまで皆この難を逃れることはできなかった。
   これと同時に、日本軍は中華門から内橋、大平路から新街口に及ぶ一帯、孔子廟に及ぶまでの繁華な区域をことごとく、家とみるとすぐ焼き払い、その火は何日も続いてやまず、全市の約三分の一の建築物と財産が灰燼に帰した。
   無数の住宅、商店、官署、倉庫は略奪され尽くして、略奪後の南京は見わたす限り荒涼とした有様だった。