改憲論2ー瀋陽日記

 「改憲論」に話を戻そう。
 この数日、森村誠一氏の『新版・悪魔の飽食』と『新版・続悪魔の飽食』の二作を読んでいて、次のような一節にであった。
 ≪・・・「国を守るために国民が団結しよう」という合言葉の下に、国民の意思が統一され、自由な言論が弾圧された。こうして、国のために死ねる者が愛国者としてファシズムの奴隷となり、そうでない者は「非国民」「売国奴」のレッテルを押されて憲兵特別高等警察という反体制の政治活動や思想を取り締まる秘密警察の餌食となったのである。
 私が国の防衛や、自衛のための交戦権などという言葉に激しい拒否反応を示すのは、少年時代の記憶があるからである。
 自主憲法制定国民会議、および自主憲法期成議員同盟会長、岸信介氏は犯罪の頻発や、家庭内あるいは校内暴力まで、現行憲法のせいにし、それは日本が戦争に敗れ、すべての物を失い、日本が独立を持っていない、日本人としての自信を失い、ほとんど自由な言論も許されなかった占領初期に占領軍から押しつけられた欠陥憲法であると決めつけている。(中略)
 たしかに終戦後、日本は講和条約が結ばれるまで占領軍の支配下におかれ、占領政策に対する自由な言論は認められなかった。
 言論機関、ジャーナリズム関係は占領軍の検閲下におかれ、「日本は敗北した敵であって、文明国の間に位置する権利をもったものではない」と決めつけられた。
 だが占領政策は当初、軍国ファシズムの一掃と民主化を課題としていた。ポツダム宣言において連合国は、第六条以下に軍国主義権力および勢力の除去、日本の戦争能力の破壊および平和と安全と正義の新秩序が確立されるまでの日本占領、戦争犯罪人の処罰と民主主義の復活強化および基本的人権の確立、前記処目的の達成と日本国の自由に表明した意志による平和的かつ責任ある政府の樹立を条件とする占領軍の撤収などを降伏の実質的条項として提示し、日本はそれを日本の意志によって受諾したのである。
 受諾した以上はそれに拘束されるのは当然であり、それをもって自由と独立が許されないというのは当たらない。しかもそれを言う岸信介氏は、戦時中、東条内閣の閣僚であり、A級戦犯として逮捕された人物である。私は彼を会長とする憲法改定派にファシズムの臭い芬々たる胡散臭さと、その拠って立つ精神主義に、かつての「国民精神総動員」と同じパターンを観ずるのである。(中略)
 私たちはファシズム支配下の自由の圧殺と、ポツダム宣言受諾後の占領下の自由と独立の欠落を等質に考えてはならない。これを等質に、いや戦中、戦前よりも自由が許されていないと規定するところに憲法改定派の拠点があり、そこに彼らの欺瞞があるのである。・・・(以下略)≫[新版『続・悪魔の飽食』終章 第七三一部隊朝鮮戦争の関連225頁から227頁(角川文庫:昭和58年8月10日初版発行)]
引用が長くなってしまったが、この森村誠一氏の所論には僕の言いたいことがほぼ込められている。
 いわゆる「改憲論者」の論法の欺瞞性が明快に書かれている。しかも、この二作品の発刊に当たっては様様な攻撃がなされたことも書かれている。「写真誤用問題が発生し手以来、(略)世間の凄まじい糾弾の集中砲火を浴びた。この実録の内容の重さと、社会的影響の大きさを考えれば、当然の成行きであるが、誤用問題を契機に、日本の軍国主義の復活を望みその告発を喜ばない勢力につけ込まれることとなった。」(新版発行に当たっての序文)と忸怩たる思いを述べている。
 このように、彼らの論法は変わらない。「毛を吹いて疵を求める」(あら探し)の手法なのだ。「従軍慰安婦は捏造だ」と言い募るネットの書き込みを見ても、証言の細かな食い違いを、さも鬼の首を取ったように言い募り、その事実そのものがなかったかのような「プロパガンダ」を展開する。この人たちに付き合っている暇はないのだが、ネットにこの手の書き込みなどが横行しているのを見ると嘆かわしい。
 さしずめ、僕などには、実証的な研究はできないのだが、起こったこと、あった事実に対しては謙虚でなければならないと思う。それが本当の意味で「歴史」に向き合う態度ではないかと思う。