恤民2ー瀋陽(小説)

 彼は博物館の両手をもぎ取られた座像のように、身じろぎ一つしないでただ真っ正面を見据えていた。タイル石の歩道に段ボールのような敷物を敷いて、座禅のように組んだ脚には毛布が掛けられている。しかし、腰から上は、一枚の灰色の半袖シャツを着ているだけだ。自分には両腕がないのだということをアピールするためだろうが、それはいかにもわざとらしい。それでいて、顔には卑屈なものは微塵もない。ただひたすら、禅の修行に励む達磨大師のように、眼光は鋭く、前方を睨んでいる。
 瀋陽にもこうした物乞いは多い。地下鉄の中でリーフレットのような紙片を見せて、言葉短かに協力を募っている物乞いもいれば、鉄道の駅の券売所の前に並んだ列に両手をお碗のように合わせて少額の金をねだっていく青年もいる。
 何時だったか、地下鉄太原街駅から太原街に向かう途中、戦前の奉天銀行千代田店の前を通りすぎたところに、人間が横たわっていた。通行人が皆避けて通ってっていくので、よく見ると、横たわった人は少しずつ動いていた。彼は50センチ四方の板に車を着けたものの上に腹をのせて。両手を使って移動していく。手の下には、チョークで書かれた美しい文字が並んでいる。彼は移動しながら文字を書いていたのだ。両足ともに全く動いていない。何かの事故で脊椎損傷になったのだろう、下半身は全く動かない様子である。文字の先頭の所に、学生食堂などに良く使われる金属製のお碗があって、その中には10元、5元、1元といった紙幣と1元、5角、1角の硬貨が入っている。それは、呼び水の金かも知れないし、その時までの喜捨かも知れない。誰もお金を入れないかというとそうでもない。百人の人が通りすぎると、中には一人か二人の奇特な人がいて、小銭を投げ入れていく。それがあるから彼らのパフォーマンスも持続できるのだろう。白墨の文字が何を書いているのか僕は読みとる暇もなく、急いでその場を離れた。
 この町では、車いすにはめったにお目にかからない。どこかの公園で、車いすに乗った老人とそれを押している夫人の姿を目にしたことはあるが、それもごく稀な例だ。歩道は近頃、形ばかりスロープを付けるようになったが、生憎と2センチばかりの段差がある。その2センチほどが車いすに乗る人には高い壁のような段差なのだということがまだこの地の人々には理解されていない。
 お金を出す人には意外と若い人が多い。若いといっても、40代から下の人なのだが、僕の歳からすると若い。文革後の世代と80後の世代のことだ。彼らは文革世代よりは恵まれているからかも知れない。僕が旅行中に案内を買ってくれた女性は、「この子どもたちは朝から何も食べていないのです」といった母親に、即座に10元札を握らせていた。「だって、可哀想だし、自分もそうなったらあんな風にするかも知れないしね」と語っていたが、彼女は地方都市の実業家で官公庁の文房具などを一手に取り仕切っている人だったから、「自分もそうなったら」と本気で考えているたのかは伺い知れない。
 消息通の一人は「あれには元締めがいて、それぞれ役割の応じて演出しているのさ」と言っていたが、戸籍を持たない「黒孩子」を買ってきて、物乞い児童に仕立てるビジネスもあるそうだ。老婆と年齢の違う二人の女の子に汚れた服を着させて、「この子たちの両親は出稼ぎにいっったまま帰ってこないのです。もう1週間も水ばかり飲んでいます」と訴えられたら、どこまでが芝居なのか真実なのか、見分けられる人は少ない。
 そういえば、文革世代は「土を食う」ような本当の飢餓を知っているから、それが本物かどうかをすぐ見抜けるのかも知れない。あるいは、本当だと感じても乏しい年金の中から、彼らに与えられるようなお金を持ち合わせていないのかも知れない。
 それでも、喜捨をする人がまだまだいると言うことは、この国の暖かさなのか、経済的な豊かさの指標なのか一体何なんだろうと考えてしまう。(続く)