恤民ー瀋陽(小説)

 後漢光武帝の心意の奥底には「民を恤する心」があったと宮城谷昌光の小説『草原の風』の中に記されていた。王莽の圧政から赤眉の乱を経て、まことに「平凡」に見えていた者が、王朝の主催者の席に駆け上っていく微細を、この作家特有の平易だが、衒学的な筆致で綴られている。
 「もともと非凡さを人に感じさせていた者が、星雲を駆け上がっても、『やはりーー』と、人はいうであろうが、劉秀のように平凡さを見せていた者が、百万の敵兵にもたじろがず、寡兵をもって大軍を破ったばかりか、敵対していた者たちをつぎつぎに宥して、王となり皇帝となったことに、おどろかぬ人はいなかったであろう。劉秀ほど巨きな寛容力をもった皇帝は空前絶後であろう。」と「あとがき」で作者自身が書いている。
 果たして「絶後」だったのかなと僕は考えていた。家から送られてきたこの本を地下鉄で立ち読みして、先程読み終えたばかりだ。「疾風にして勁草を知る」という故事が、劉秀の主従と僅かな手勢が幽州(河北省から遼寧省)の厳寒の山野を彷徨していたときの叙述に含まれていたように覚えているが、これはまるで、国民党の包囲を脱出して、はるか延安まで根拠地を求めて彷徨った紅軍の「長征」ではないかと思ったりしていた。
 反乱軍のほとんどが盗賊から勢力を伸ばした軍団であり、攻め落とした城市に入ると、略奪や強姦などの暴行を恣にしていたのに対して、ただ劉秀の軍勢のみは、略奪を禁じ、規律を保ち続けた。それが、多くの城市の無血開城と人民の沸き立つような支持をもたらし、彼を皇帝のきざはしにまで導くことになった最大の要因だった。
 それはまた、初期の中国紅軍(八路軍)にも共通していたことでもあった。40数年前に目にしたエドガー・スノーの『中国の赤い星』などにそんな記述が随所に見られたものだ。
 古い記憶の底を探りながら、僕は地下鉄瀋陽駅のアプローチを歩いた。
 ここはいつも込んでいる。鉄道の瀋陽駅前にあるから、乗り換え客が多いのだ。地下鉄の券売機の前は、いつも長い列ができている。人混みをかき分けるようにして、太原街に向かうエスカレーターに登った。エスカレーターの途中でタバコを咥えて、登り切ったところで、百円ライターで火を付ける。
 12月の中旬になると、昼でも零下の日が多くなり、寒風が地下に向かって押し寄せる。入り口のビニール板のような簾をくぐると、僕の目にいつもと違った物乞いの姿が飛び込んできた。
 彼は寒風の中でも、上半身はシャツ1枚で袖口には肩から切断された両手の切り口が生々しい赤銅色をして左右に骨の膨らみを向けていた。(続く)