瀋陽日記ー作文

 前回の更新から何と二週間以上も過ぎている。何度かブログを書こうとしたのだが、その都度時間がないのと精神的な負担から、つい筆が遠ざかってしまった。今日、たまたま僕のブログのフォロアーの一人である瀋陽在住のKさんと電話で話していて、5月20日で止まってますよと注意を受けた。日本にいる妻から、心配して、病気ではないかとみなさんに心配をかけるよとも言われていた。
 今日やっとこのブログに向き合う気持ちが出てきた。Kさんありがとう。
 ところで、昨日やっとけりをつけた仕事のことから報告しよう。
 「中国人による日本語作文コンクール」という催しがある。在日中国人のかたを中心に運営されている日本僑胞社が主催するコンクールであり、今回が10回目である。昨年の上位入賞者が北京の日本大使館で表彰され、発表会を持ったところから、NHKや全国紙各社が大きく報道し、日本国内でもかなり知られるようになったコンクールでもある。昨年、瀋陽からは医科大学の学生が優秀賞に輝き、大使館で表彰された。僕の学校の生徒も1年生ながら、3位に入賞して、1万円相当の賞品と賞状を貰った。募集対象は中学生から大学院生、日本語学校生徒まで含む4000人近くが応募した中での入賞だったから、僕としても応募のしがいがあると感じていた。
 今年の応募にはぜひ50編以上を出して、「園丁賞(学校賞)」を狙おうと目標を立てた。日本語科主任の了解を得て、高校2年、3年の日本語選択者すべてと高校1年の希望者を応募させようと画策した。
 さて、一次原稿の締め切りに間に合わせて提出したのが2,3年生の約5割、最終原稿をワードで打ち込んで提出するところまでいったのが約4割だった。その間何度か添削を重ねて、入力した原稿でも入力ミスや変換ミスが至る所にある。まして、3年生などは毎日深夜に及ぶ模擬試験の合間に書いているから、修正や入力もままならない。
 最終締め切りが5月31日だったが、僕はその前日の30日に個人的な興味から遼寧省の最貧地区を旅行する計画を立てていた。30日の午後5時を過ぎても、未点検の原稿が10編以上残っていた。列車の発車時刻は午後7時15分だった。6時を回ったところで僕は旅行を諦めざるを得なかった。
 一緒に取り組んでくれた同僚のSさんも「こうなることは予想が付いていた」と後日語ってくれたが、僕の見通しの甘さを責めるしかない。そして、どうした弾みか、紛れ込んでいた1編は、どう読んでも日本語が通じない。何度か読み返すうちに、これは中国語の原稿を自動翻訳ソフトで読み込ませたものに違いないと気が付いた。この作品は一次原稿でも目にしていなかったので、点検してみると、メールで僕に直接送られたものだった。一気に、僕の士気は萎えた。いくらなんでもこの作品は送るわけにはいかないと判断した。学生は追い詰められるととんでもないことをやってくれるものだと今更ながら思い知らされたものだ。メールアドレスのチェック、時数の最終調整、通しナンバーの記入など、すべての調整が終わったのが、31日の午後5時半だった。それでも、時数不足や、点検漏れの原稿が5編ほど残ってしまった。悔しいが52編を出すのが限界だった。
 僕の端午節の旅行はどこに行ったのだ。