下放ー瀋陽日記

 昨日の記事で30日に出発する予定だった旅行のことを書いたが、それはいわゆる「上山下郷」と呼ばれた下放運動の派遣先の一つを訪れてみようという計画だった。計画そのものに少し無理があったのかも知れないと今頃少し反省している。というのは、一昨日、学生と話す機会があって、その頃、「君の父母はどうしていたのか」と聞いてみた。その学生の家系は祖父の代に安徽省の農村から瀋陽に出稼ぎに来て努力謹行の末、瀋陽に定住した家系だった。文革の最盛期、父の4人兄妹のうち長姉はやむなく下放したが、残りの3人は農村出身を武器に「下郷」を免れることができたという。また、母親の姉弟は2人で、当時弟が安徽省の田舎に預けられていたので、「一人っ子」だと主張して、これも下放を免れたのだという。しかし、父母の同世代のほとんどが下放しているし、少し上の世代では「劉暁慶」という国民的女優がその代表例だと教えてくれた。その時期の文献や回想記もたくさんあるとのことだった。
 この文革の話は中国ではとても微妙だ。恐らく話せば「血の涙」が出るような出来事で一杯だったのだ。そんなことも知らずに、1969年、1970年の文革最盛期に「造反有理」などと脳天気にスローガンを叫んで、学校封鎖などで走り回っていた世代が、僕の世代なのだ。今頃、その頃の話を持ち出すと、国家元首を始め、現在の中国の第1戦で活躍している50代前半から60代前半の人々のほとんどが、一様に口をつぐんでしまう。自分の経験を含め、仲間達と暮らした農村の生活の「惨苦」(そればかりではなかったにしろ、多くは惨苦に満ちていたと聞く)を、今の80后、90后の世代に伝えようにも伝えようがないからだろう。そして、自分の心の中に「血の涙」を流した過去を封印したかったのかも知れない。
 そんな場所になぜかというと、下放先と満蒙開拓団の開拓地とがダブって見えていたからである。
 中国のネットに載っている書き込みに次のようなものがあった。
 2012年1月の書き込みに、
 「当時、知青(知識青年)たちはどんな地方に下郷したのか??」と言う見出で、「どんなことをしていたのか」というといが出されている。
 翌日経験者から概略次のような回答がなされた。
 「文革期間の下放青年とは、総数1700万人余りの初級中学(中学校)及び高級中学(高校)の卒業生(予定者)が各省の下放青年となったもので、大部分はその省に下放されたが、北京、天津、上海、浙江、四川などの知識青年は他の省に下放された。」(つづく)