窓2ー瀋陽(小説)

 どうして私にばかり、こんなことが続くのだろう。
今朝方、出勤してすぐに副園長の劉玉英から叱責を受けた。5歳児の宝児の林檎アレルギーの件で抗議の電話があったと言うのだ。確かに園内で出された昼食の中にデザートの林檎が混じっていたが、宝児に林檎アレルギーがあるという引継ぎは受けていなかった。まして、宝児の前の担任は劉玉英であったはずだ。彼女から何の引継ぎもしなかったくせに。アレルギー症状を把握していなかったのは自分の責任だと言われた。「引継ぎを受けてはいませんでしたし、知りませんでした」と反論したが、劉副園長は「知らないでは済まないでしょう。子どもの健康状態にいつも注意を払うのが担任の任務でしょう」と居丈高な言い方をした。「幸い、軽い蕁麻疹の症状が出て、掛かり付けの医者に処置して貰ったら1日で治ったから良かったものの、これが重篤な症状になったりしたら園の信用はどうなるの」と暈にかかって責め立ててきた。一戦を交えようかと思ったのが、朝から気の重い一日を過ごすのも愉快じゃないし、この女は私を怒らせて、降格させることで自分の権力を見せつけたいのだと思うと、もう少し要心して対応しようと思い直した。「これから気をつけます」と言い置いて、副園長室を出た。扉を閉めた時、「済みませんでした」などとは絶対に行ってやるもんかと思った。
 副園長に昇格する第1候補が私だったのだ。決定される半年も前から園長から「次はあなたが副園長になってくれることを期待していますからね」と言われていた。日常の仕事ぶりも部下の掌握ぶりも、2歳年下の劉玉英よりも自分の方が優れている自信はあった。園長の市の教育部への具申も、第1候補は私だったはずだ。なのに、人事が発表されると副園長には私の部下だった劉玉英がなっていた。迂闊だったのは、劉玉英が省政府の副省長の遠い親戚であって、彼女の一族が副省長の威光をバックに市の教育部の幹部に接待攻勢をかけていたことに気付かなかったことだ。
 いや、と徐彩燕は思い直した。気付いていたところで、どうしようもなかっただろう。向こうに対抗するには、副省長の1段階か2段階上の人を動かさないといけない。そのためには、2倍から3倍のお金がかかる。市内の有名校に進学している娘の教育費に年間10万元近くのお金がかかるのだ。授業料、寮費、教科書代なんていう決まったお金の他に、外で受ける英語の塾代も馬鹿にならない。私の給料を全部つぎ込んでも、まだ足りないのだ。そんな私に省長だの党書記だのといった高官を接待できるはずがないのだ。相談したくても、亭主が家に帰ってこないのだから・・・。
 彼女の想念は、また不在がちな夫の所に戻っていった。軍を退職して今の会社の従業員になった頃に、見合いで結婚した夫だった。軍にいたからかも知れないが、夫の立ち居振る舞いはきりっとしていた。身だしなみも清潔だし、言葉も丁寧だし、身長も並の人よりも高かった。この人となら良い家庭が築けるかも知れないと思って、結婚を承諾した。実際に、おだやかな良い家庭だったし、30歳になる前に娘をもうけて、3人で暮らす生活は何の憂いもなかったのだ。しかし、夫が40歳を過ぎて、職場での地位が上がって行くにつれて
おかしな行動が目に着くようになったのだ。
 気が付くと隣の男はカバーを裏返して表題を見えなくした本を読んでいる。 中国人なら絶対しないわ。みんな携帯かスマホを広げてメールを打っているかゲームをしている。やっぱり外国人。と目の隅で本を見ると、縦書きになっている。やっぱり日本人だったんだ。娘の行っている学校にも日本語の外国人教師がいると聞いたけど。そのうちの一人かも知れない、と思いついた。
 地下鉄は、渾河の下をくぐっている。もう下りる用意をしなくちゃと考えた瞬間、先週末に娘が言った言葉を思い出した。
 「ね、ママ、わたし留学しても良いの。来年の6月頃までには、国内の大学にするのか、外国の大学にするのかを決めなきゃならないんだって。うちって大丈夫よね。担任の先生もそろそろ家族で考えを決める時期に入っているって言うし・・・」娘があとの言葉を濁した理由を彼女は良く分かっていた。相談したくてもパパが家にいないねと言うと両親の夫婦関係に娘が口を出すことになるから言いよどんだのにまちがいない。
 「大丈夫よ。あなたが一番行きたい道を選んだら、ママもパパも全力で応援するからね。パパもずっとそのつもりよ」と努めて明るく言ってやった。勘の良い娘だからその後は何も言わなかったが、相談するにも娘はまだ幼すぎる。あのこが18歳になったら思いっきり、全部打ち明けても良いかもしれない。そう考えると、少し気分が楽になった。
 地下鉄の奧体中心駅で降りようとして、隣の男を見ると、少し離れた座席に座って、相変わらず本を読んでいた。
 エスカレーターで出口を出ると12月の寒風が頬を刺すようだ。でも今年はまだ暖冬だな。零下10度ぐらいだったらまだたいしたことはない。そう思って、寒気を胸一杯に吸い込んだ。高層マンションに向かう中空に月が薄くかかっていた。PM2.5の影響だろうか。これも毎年の冬に比べたらまだまだこんなものではない。そう思って見た月は泣いているようにも、笑っているようにも見えた。「ま、なんとかなる」と徐彩燕は靴音を高めて歩き出した。