瀋陽日記ー下放3

 下放3《続き》
 ほとんどすべての下放青年の下郷後の仕事は農業生産労働にに従事することであった。農場に配置された知青は、通常は毎月30元前後の固定給を貰っていた。所在の生産隊は約百名の知青を集められ、
大部分は機械を使い、生産率も比較的高く、食堂で食事をし、集団宿舎に泊まり、毎年(あるいは2年毎)に旅費支給の帰省休暇があり、生活が比較的に安定していたため、農場にいた時間も長く、ほとんど大部分の人が文革が終わった1978年前後になって街に帰ってきている。
 挿隊の知青(人民公社の生産隊に配属された知識青年)は労働点数を稼ぐだけで、しかも最高の1日10点を稼ぐのは極めて難しく、あらゆる経費は自分で支払い、1つの生産隊に通常は10人足らずで、宿舎にとても差があり、食事は自炊で、多くの地方では1年分の給付金が家に帰る旅費にも満たなかったので、大部分は比較的早くに農村を離れていた。
 いくらかの知青は当地で教師や医者などの仕事を担当し、その地の教育水準や医療水準を著しく向上させた。

 以上で「下放青年(知青)」の一般的な解説の翻訳を終えて、次回からは、国民的女優、且つ億万長者と称される「劉暁慶」のことを書いてみたい。

瀋陽日記ー下放2

 明日が入試ということで、今日は3:30で生徒が全員下校してしまった。明日と明後日の二日間にわたって、小学生2100人がこの学校で受験する。定員は200人だから、約10.5倍の競争率だ。例年この倍率だから、入学した生徒の基礎学力は相当に高い。この画稿の他に2校、中学入試の難関校があるそうだ。2つもしくは3つを掛け持ち受験している学生も多いのだという。ただ、日本語の面では、この学校はまだ中心科目に据えているため、日本留学を当初から目指す学生も多い。さて、こうして入学したのに、6年目の高3にもなると、歴然と学力差が生まれてくるのが、当然のこととは言いながら、何か不思議な気がする。さて昨日の続きを書きたい。

 下放
 大量に他省の知青(知識青年)を受け入れた省は:黒竜江吉林内蒙古、山西、陜西、雲南等で、その中でも各辺境省が設立した“生産建設兵団”が知青の主要な受け入れ機構になっていた。上述の知青は、新疆を支援する各地の知青を含んではいない。彼らの大多数はすでに当地に留まっていたからである。
 下郷知青は各地から農村に至った性質から見て、おおよそ、農場(兵団を含む)、生産隊の2種類に分けられる。後者は総じて“挿隊”と称せられた。これが決定してしまうと、同じ知青であっても、生活様式には著しい違いがあった。・・・・以下略。
 

下放ー瀋陽日記

 昨日の記事で30日に出発する予定だった旅行のことを書いたが、それはいわゆる「上山下郷」と呼ばれた下放運動の派遣先の一つを訪れてみようという計画だった。計画そのものに少し無理があったのかも知れないと今頃少し反省している。というのは、一昨日、学生と話す機会があって、その頃、「君の父母はどうしていたのか」と聞いてみた。その学生の家系は祖父の代に安徽省の農村から瀋陽に出稼ぎに来て努力謹行の末、瀋陽に定住した家系だった。文革の最盛期、父の4人兄妹のうち長姉はやむなく下放したが、残りの3人は農村出身を武器に「下郷」を免れることができたという。また、母親の姉弟は2人で、当時弟が安徽省の田舎に預けられていたので、「一人っ子」だと主張して、これも下放を免れたのだという。しかし、父母の同世代のほとんどが下放しているし、少し上の世代では「劉暁慶」という国民的女優がその代表例だと教えてくれた。その時期の文献や回想記もたくさんあるとのことだった。
 この文革の話は中国ではとても微妙だ。恐らく話せば「血の涙」が出るような出来事で一杯だったのだ。そんなことも知らずに、1969年、1970年の文革最盛期に「造反有理」などと脳天気にスローガンを叫んで、学校封鎖などで走り回っていた世代が、僕の世代なのだ。今頃、その頃の話を持ち出すと、国家元首を始め、現在の中国の第1戦で活躍している50代前半から60代前半の人々のほとんどが、一様に口をつぐんでしまう。自分の経験を含め、仲間達と暮らした農村の生活の「惨苦」(そればかりではなかったにしろ、多くは惨苦に満ちていたと聞く)を、今の80后、90后の世代に伝えようにも伝えようがないからだろう。そして、自分の心の中に「血の涙」を流した過去を封印したかったのかも知れない。
 そんな場所になぜかというと、下放先と満蒙開拓団の開拓地とがダブって見えていたからである。
 中国のネットに載っている書き込みに次のようなものがあった。
 2012年1月の書き込みに、
 「当時、知青(知識青年)たちはどんな地方に下郷したのか??」と言う見出で、「どんなことをしていたのか」というといが出されている。
 翌日経験者から概略次のような回答がなされた。
 「文革期間の下放青年とは、総数1700万人余りの初級中学(中学校)及び高級中学(高校)の卒業生(予定者)が各省の下放青年となったもので、大部分はその省に下放されたが、北京、天津、上海、浙江、四川などの知識青年は他の省に下放された。」(つづく)

瀋陽日記ー作文

 前回の更新から何と二週間以上も過ぎている。何度かブログを書こうとしたのだが、その都度時間がないのと精神的な負担から、つい筆が遠ざかってしまった。今日、たまたま僕のブログのフォロアーの一人である瀋陽在住のKさんと電話で話していて、5月20日で止まってますよと注意を受けた。日本にいる妻から、心配して、病気ではないかとみなさんに心配をかけるよとも言われていた。
 今日やっとこのブログに向き合う気持ちが出てきた。Kさんありがとう。
 ところで、昨日やっとけりをつけた仕事のことから報告しよう。
 「中国人による日本語作文コンクール」という催しがある。在日中国人のかたを中心に運営されている日本僑胞社が主催するコンクールであり、今回が10回目である。昨年の上位入賞者が北京の日本大使館で表彰され、発表会を持ったところから、NHKや全国紙各社が大きく報道し、日本国内でもかなり知られるようになったコンクールでもある。昨年、瀋陽からは医科大学の学生が優秀賞に輝き、大使館で表彰された。僕の学校の生徒も1年生ながら、3位に入賞して、1万円相当の賞品と賞状を貰った。募集対象は中学生から大学院生、日本語学校生徒まで含む4000人近くが応募した中での入賞だったから、僕としても応募のしがいがあると感じていた。
 今年の応募にはぜひ50編以上を出して、「園丁賞(学校賞)」を狙おうと目標を立てた。日本語科主任の了解を得て、高校2年、3年の日本語選択者すべてと高校1年の希望者を応募させようと画策した。
 さて、一次原稿の締め切りに間に合わせて提出したのが2,3年生の約5割、最終原稿をワードで打ち込んで提出するところまでいったのが約4割だった。その間何度か添削を重ねて、入力した原稿でも入力ミスや変換ミスが至る所にある。まして、3年生などは毎日深夜に及ぶ模擬試験の合間に書いているから、修正や入力もままならない。
 最終締め切りが5月31日だったが、僕はその前日の30日に個人的な興味から遼寧省の最貧地区を旅行する計画を立てていた。30日の午後5時を過ぎても、未点検の原稿が10編以上残っていた。列車の発車時刻は午後7時15分だった。6時を回ったところで僕は旅行を諦めざるを得なかった。
 一緒に取り組んでくれた同僚のSさんも「こうなることは予想が付いていた」と後日語ってくれたが、僕の見通しの甘さを責めるしかない。そして、どうした弾みか、紛れ込んでいた1編は、どう読んでも日本語が通じない。何度か読み返すうちに、これは中国語の原稿を自動翻訳ソフトで読み込ませたものに違いないと気が付いた。この作品は一次原稿でも目にしていなかったので、点検してみると、メールで僕に直接送られたものだった。一気に、僕の士気は萎えた。いくらなんでもこの作品は送るわけにはいかないと判断した。学生は追い詰められるととんでもないことをやってくれるものだと今更ながら思い知らされたものだ。メールアドレスのチェック、時数の最終調整、通しナンバーの記入など、すべての調整が終わったのが、31日の午後5時半だった。それでも、時数不足や、点検漏れの原稿が5編ほど残ってしまった。悔しいが52編を出すのが限界だった。
 僕の端午節の旅行はどこに行ったのだ。

瀋陽日記ー長白山5

 古い記事を書いているうちに、5月も中旬を過ぎてしまった。この間に弁論大会、学校の日本文化祭などの行事が立て続けにあって、今月25日の2014年度瀋陽日本語文化祭で一応今期のおもな行事が終わる。それらのことについても色々な出来事があるのだが、このブログの時間は5月1日前後で止まったままだ。

 長白山5

 10時前になって、やっと切符の発売所が開いた。それでも、購入して山頂に向かおうとする人がそんなに多くない。アナウンスや人の話しによると、山頂の天池には行けないのだが、途中の小天池には行くとのことだ。では残る人たちは、山頂に登れるようになるまで待とうと言うつもりなのかといぶかしかったが、僕は帰りの列車もあるので、先ずは小天池まで行ってみようとチケットを購入した。
 バスは小型のマイクロバスだったが、満席になると同時に出発した。しかし、走り出して10分もしないうちに止まってしまった。乗客は誰も文句を言わない。ただひたすらじっと待っているだけだ。暫くすると事情が飲み込めた。ここでも雪の影響で、急斜面を登り切らないために、除雪を進めているらしかった。
 待つこと30分、僕も待ちくたびれてうつらうつらし出した頃にバスは動き始めた。動き出したら20分ほどで、長白温泉群に着いた。先に来たバスや観光客が群れをなしていた。雪に被われた道を歩いて上ると温泉が見えてきた。温泉と言っても、立山の地獄谷温泉のように、温泉が湧き出るところが囲ってあって、その周りの散策路を一回りするだけである。後で地図で調べると、山頂の天池駅までの行程の中程にある温泉であった。もちろんここから先は行けない。数人の観光客が越えていった橋は、長白瀑布につながる橋だったが、すぐに閉鎖されてしまった。 狭い学校の校庭ぐらいのエリアに、多数の観光客が押し寄せてきた風だった。
 山小屋風の休憩所があって、そこで温泉卵を売っていた。喜んで買って、皮を剥いてみ


たところ、白身が固まって黄身は半熟だった。温泉卵は50℃ぐらいのところに長時間おいて、黄身が固まって、白身が半熟の状態だと思っていたのでガッカリだった。恐らく、60℃を越える原泉の中に短時間付けて売っているような感じであった。似て非なるものはこの地でも多いのだが、ここでも一つ出会ってしまった。

瀋陽日記ー長白山4

 たどり着いたところに、大きな山小屋風の「長白山旅游センター」があった。
 先客が歩いて行く後を付いていくと、何のことはない。そこはトイレだった。トイレを出たところに大きなホールがあって待合室になっている。先に来た客たちも所在なげに、山頂に向かうバスの切符の販売を待っている。

 ベンチの一つに腰掛けていると前に座った若者のグループに気づいた。
 話しかけてみると、哈爾浜から来たと言う。女性が3人に男性が1人という組み合わせであった。
 哈爾浜林業大学の学生で、この連休を利用して、長白山に来たのだという。男性は隅にいた女性とカップルらしく、にこにこしているだけで話しには加わってこない。林業大学というのなら、実習と関係があるのかなと疑問に思って聞いてみたが、まるっきり観光だという返答だった。

 それにしても若者が多い。僕の若い頃も、夏休みなどでは旅行したが、連休中に旅行できるようになったのは、高度経済成長の頃からだ。それだけ若者が豊かになったと言うことなのだろう。
 9時から山頂に向かうバスの切符を販売するというので、人々が売り場の前に集まりだした。5列ほどある列の最後尾に行ったが、切符を売り出す気配がない。そのうちに、列が崩れ、中程の人や、最前列の人などが立ち去っていく。まだ事情が飲み込めなかったのだが、前から5人目ぐらいまで近付いた頃に、やっと事情が飲み込めた。降雪のため、路面の整備をしていてバスの運行の見通しが立たないようだ。
 5月にもなると車は冬用のタイヤではない(真冬でも果たして冬用タイヤだったかは分からないが)。
 切符売場も、切符の改札口も開いてはいない。
 暫く待つ時間に周囲を写真に撮ってみた。



瀋陽日記ー長白山3

 翌朝、6時過ぎに目を覚ました僕はこの民宿を後にした。駅前のぬかるんだ広場には10数台のマイクロバスやバスが停車していて客引きに忙しい。長白山へというとマイクロバスに乗せてくれた。客がほぼ満員になるのを待ってバスはすぐ出発したのだが、すぐに停車した。朝食を摂るための停車だった。乗客が全員降りて店の中に入った。中には先客が満員で席がない。立ったままの人も多い。暫く見ていると皆が店の奥まで入って、てんでに食器を抱えて出てくる。僕も慌てて列に加わった。朝食は外食の定番になっている、包子(肉まん)と豆腐脳(卵豆腐がスープの中に浮かんでいて、ニンニクや香祭を好みに応じて混ぜて食べる)を注文してテーブルの一角で食べた。食べ終わった人からバスに乗車していくのだが、まだ待っている人もいるのでゆっくり食べた。
 食べ終わってマイクロバスに乗ろうとすると、このバスはホテルに行くのだという。何時そんなアナウンスがあったかも気付かなかったのだが、慌てて、前の大型バスに乗り換えた。僕が最後から3人目であった。
 バスの中は満員、ほとんどが若者で、僕のような老人は見当たらない。おまけに、心得た人が多く、冬用のダンジャケットを着込んだ若者もいる。前の席の親子らしい中年の女性と若い女性の二人連れは僕と同じ平服のままだった。用意した防水ジャンパーを着ていてもまだ肌寒い。心配していたがなるようになるだろうと考えているうちに、バスは山間に入っていった。道端には白樺の林が目に着くようになった。路面には雪はないが林の中は一面真っ白である。時々、ダケカンバやトウヒなどの針葉樹が混じってきている。

駅から長白山山門(北坡)まで約46キロ、1時間ほどだというので、暫くまどろんでいたのだが、外の景色の変化に気付いて、やおら愛用のカメラをリュウクから取り出した。バスの窓越しに撮る写真は余り鮮明ではない。
 やっと山門にたどり着いたと思ったら、バスはそのまま通りすぎて、小さな店の前に停車した。そこは、冬用のブーツやウエアーを貸し出している店だった。ブーツが50元、ウエアーが50元で貸し出している。山頂にまで行くのなら、今の服装はまだ心許ないので、一揃え借りることにした。代金100元+預託金(デポジット)200元、計300元を払わされた。領収書を大事に持っていないと、200元が返ってこない。





 バスに乗り込んだのが一番最後になった。前にいた席には若者が座っていたが、僕の顔(年齢?)を見て席を譲ってくれた。大学の同級生らしい男女6人連れだった。このバスに乗ったときバスの料金は片道20元、往復40元と言われ、ガイド兼車掌の携帯番号を教えられた。名前を聞き漏らしたのでけいたいには「バスガイド」と中国語で打ち込んで控えておいた。これは、下山したときに、ガイドに連絡して乗ってきたバスを探すのに必要だからだ。間もなく到着と言うときに、ガイドはバスは午後2時頃に出発すると告げていた。