剣道ー瀋陽日記

 もともと僕は柔道少年だったから、剣道には縁がない。とはいえ、中学生の頃は隣り合わせで練習している剣道部の連中とも仲良くしていた。夏場になると、暑い柔道着を着てする稽古は苦痛だった。体育館の中で眩暈がしそうなほど暑い上に、分厚い柔道着が汗だくになっていたものだ。同じころ、剣道部はさらに重くて暑い面や胴、小手などの防具をつけて猛練習に励んでいた。その時ばかりは柔道部で良かったと思ったものだ。
 50年を隔てて、瀋陽の地で剣道に出会うとは思ってもみなかった。経緯は、今年の日本文化祭に瀋陽の剣道友会の方々を招いたことに始まる。日本文化の紹介にはお茶やお花の他に剣道も欠かせないと言って、中国人の日本語教師が探してきた道場の関係者である。
 日本文化祭では、体育館の舞台発表で、居合抜き、型の披露、掛かり稽古などを演じて貰ったのだが、学生には大変好評だった。しかも、全員が中国人だった。僕にとっても、これだけのレベルの愛好者が瀋陽にいるということだけで驚きだったが、剣道友の会の方々は手弁当だった。ひとえに剣道の普及のために活動しているようである。
 日本文化祭の責任者の学生、ジョ君は日本留学中に剣道部に所属していた。そんな縁もあって、彼は瀋陽剣道友会の道場「正心館」に通うようになった。
 そのジョ君から館長が一度会いたいと言っているとの伝言があった。その友の会と僕たちの会が合同して何かイベントができないだろうかという打診だそうだ。
 明日の午後に道場を訪問してみようと思う。とりあえず見学という立場で。だが入門する気は今のところない。友人に剣道の高段者がいるので、彼が瀋陽に来た時にでも案内する準備を兼ねて見に行こう。

引越しー瀋陽日記

 前回のブログを書いてから、2週間以上になる。またまた、読者の一人から、元気でいるのだろうかと懸念の電話があったと妻が伝えた。今日試験問題を仕上げて、やっと書いてみようという気になった。
 6月23日に例会の報告を書いてから、実は、創作まがいのものに没頭していた。原稿の締め切りが、6月30日だったので、1週間はその原稿書きに追われた。瀋陽での人間模様を描いてみたのだが、4万字(原稿用紙百枚)ほど書いても、終わらなかった。その後も、付け加えたり、削ったりしているうちに総枚数は変わらないのだが、遅々として結末に辿り着かなかった。これは今もまだ格闘中だ。今頃になって書けることもあるのだという新しい発見に励まされて取り組んでいるのだが。どこかに応募するにしても未発表原稿に限るという枠填めがあるので、この場で発表はできない。
 さて、引越しのことだが、4階の南側の部屋から3階の北側の部屋に移らなければならなくなった。学校が新しい学生募集の方法を考え出して、この9月から中卒段階での選抜試験に合格した学生50名を日本留学に特化して受け入れることになった。これから、3年で最大150名の学生を受け入れるのだから、学生の寄宿舎の確保が問題だった。そこで、女子学生寮の下にある外教公寓の内でも比較的稼働率の低い4階を学生の寮に模様替えすることに決まったのだ。もちろん打診などはない。決まったから今週中に移動してくれという具合だ。事前にそれらしい雰囲気は掃除のおばさんなどから聞いていたから驚きはしなかったが、毎度のことながら、やはり精神的には疲れる。この国では本当によくあることのようだ。
 同僚たちが心配して手伝うと申し出てくれたのだが。下着だの衣服だのを他人の手に委ねる気にもならず、4階と3階の廊下と階段を何十往復かして、先週末にやっと引越しを終えた。終わったと思ったら、案の定、ネットがつながらない。7月7日の月曜日まで待って、管理者に連絡をつけて貰って繋いだというのだが、その日もやはりつながらない。詳しい学生に頼んだところ、もう一人のパソコンに強い先生と一緒に夜中に部屋に来てくれ、夜9時過ぎになってやっと繋がるようになった。
 それやこれやで、ブログが書けない日々が続いた。弁解ばかりになっているがこれがこの間の事情である。

瀋陽日記ー手紙3

 裏面に番号をつけ、シャッフルした作品をグループで読み合わせ、順位をつける。5人×3グループ。
 各グループから良いものを2篇づつ選び出す。グループで選んだものを全体に向けて発表(朗読)する。朗読者は選んだグループの2人で。
 グループ1:作品4、3  グループ2:作品11、12   グループ3:作品9、5
作品を回収して全体の順位をつける前に、僕が再度朗読した。1人2票で挙手で投票して貰った。
その結果、優勝者は作品9であった。作者は20歳代の女性である。優勝者に本人の手で朗読して貰った。幸い名前を書いていただいていたので、優勝者探しをしなくて済んだ。皆さんが納得する見事な朗読だった。
 ちなみに、第2位は作品5、第3位は作品4だった。優勝者への賞品は当日の懇親会・送別会での飲み代を僕が払うということにした。あいにく、彼女は所要があって欠席したが、飲み代は次回に負担すると約束した。
 ところで、教師としての習い性か、誤字や助詞の使い方などが気になって仕方がない。思わず直しそうになってしまうのだが、ここは、参考にした青海省西寧の100字作文コンクールの取り組みにならって、「表記よりも内容」に重点を置くスタイルを貫こうと思った。果たしてこれでよいのか迷いはあるが。
 会が終わった後、何人かの人から「面白かった」「楽しかった」「来期の授業で早速やってみます」といった反応があった。多分に外交辞令もあるが、そういわれると嬉しい。
 同じ試みを、同僚の女性が2年生の1クラスでやってくれた。彼女は、ネットからテレビ番組で放送されたものを探し出してきて冒頭で流し、その後で作品制作にかからせたという。多くのいい作品が出たそうだ。この後、2年3年の全作品をプリントして、日本語教室主催の全校コンクールをしてみようと思う。

瀋陽日記ー三行手紙2

 前回の三行ラブレターを成人を相手にやってみた。場所は、私たちの会の研修会で、時間を埋めるための泥縄の「ワークショップ」としてやってみた。目的は作文授業の活性化ということにして、種明かしの実践報告は最後にした。
 学校の場合と同じ手順にした。まず愛する人、愛しい人を答えてもらった。「両親、妻、恋人、孫、友人×2、娘、家族×2、学生、子ども達、正直な人」などが上がった。そこですぐに原稿用紙に書いてもらった。ここは大人で、日本語に熟した人ばかりだから、添削の時間は省ける(日本人13名、中国人2名、いずれも日本語を用いる仕事に従事している)。しかも今回は、記名でも無記名でも良いことにした。約10分間の記述の時間の後、作品の裏に番号を振り、シャフルして5篇ずつ3グループに分け、それぞれのグループで読み合わせ、最も良いものを2篇、入選作として発表して貰った。
 ではどんな作品が出たのだろうか。作品番号順に書く。(原稿の表記ミスなどはすべてそのまま)
1 ゴウちゃん元気。もうすぐ3歳のお誕生日だね。お話もいろいろできるようになったでしょう。早く会いたいな。
2 今、何してる。何もしていなかったら一緒に何かしようか?何か飲みたい?
  それとも食べるほうがいい。いい天気だから散歩でもよいね。
  顔を合わせない時は写真をみて、こんなことを言ってるよ。
3 愛するという言葉は、好きではありません。でも、いつも応援してくれることに対する感謝の気持ちはゆるぎないものがあり、心からありがとうと言いたいです。
4 大人になったあなたへ 今あなたは、この手紙を読めていますか。もしここに書かれている日本語が分からなかったとしても、最後の4文字だけは覚えておいてください。   〇〇 〇〇(名前)
5 私の存在があなたには重荷になったのでしょうか。それとも、他に思う人ができたのですか。
  あなたといない日々は胸が傷くなる時間です。あなたは今も私の心の中に住んでいますよ。
  きっと死ぬまで。署名
6 好き!でも好きという言葉だけでは足りない。
  私にできることはあまりないかもしれないが、あなたに笑顔を持たせる人になりたい。
7 「愛」という字は「かなし」と読むとか。
  愛は心を痛めるもの、悲痛なもの。
  その人が失われることを思うと、心が破れそうになるもの。No〇〇93
8 僕は日本を離れるとき、ちっとも寂しくなかった。
  僕たちは2年、5年だって会わなくても話した途端に一瞬であの頃にタイムスリップできるからだ。
  どんなに離れていても、どんなに時が経っても。
9 私を生れてくれて、私を育ててくれて、そしていつもそばにいて、私のことを守ってくれる。
  さまざまな言い訳で両親には何もできなかった私は、本当にその重い愛情に報えないだろうか。
  今晩こそ愛してるよという一言を言い出せるようにするぞ。  姓名
10 3年間は早いもので、今日でみんなと一緒に勉強するのは最後になってしまいました。思えば3年前、50音から始めてここまで来ました。よく勉強した人、まだあまり勉強できていない人。いろいろいますが、それぞれがんばってきたと思います。日本語の授業は今日で終わりですが、勉強はまだまだ続きます。せっかく日本語を勉強したのですから、日本、日本語、日本人についてもっとよく知っていってください。これからも皆さんの成功を祈ります。
11 あの地で出会い、あの地で付き合い、あの地でケンカし、あの地で生活をし、この地に来ましたね。でも、あなたの場所は私の横です。
12 素朴でお人よしのあなた。他人を思いやる気持ちを強く持ち続けているあなた。
   あなたの愛が私をいつも救ってくれる。
   私もあなたに同じものをあげようと思う。
13 「日本を案内してくれたお礼に人生すべてをかけて恩返しをしたい」という言葉を聞いたとき正直理解できなかったけど、今は家族を増やすことができたので、すこし恩を返してもらったと思います。最近はお互いに関心ないけどもう一度告白させてみせるから待っていて下さい。
14 いつのことだったか、テレビドラマで見たんだけけれど。夫が泥棒するためにある家に忍び込む。妻はその家前で見張する。妻は夫に「そんなことは止めなさい」とは言わない。全受容なんだ。愛することは。
 「君は僕の太陽だ」なんて甘いことは言わないよ。
15 あれからどれくらい時間が経過したのか、いまどうしていますか?
   もっともっと気を使うべきだったと、いつも反省しています。 

瀋陽日記ー三行手紙

 北京に行って、いろいろな人に会ったことで、たくさんの示唆と刺激を得た。中でも、作文教育についての多種多様なアプローチの仕方を教えて貰った。その中の「三行ラブレター」というのに早速挑戦してみた。
 対象は、二年生の日本語クラスだ。まず最初に、「ラブレター」の相手は誰にするかで、半分くらいの生徒に直接聞いてみた。最も多いのは当然「父母」「両親」であった。高校二年生の段階では、また寮生活で、恋愛禁止の中国の生徒に取っては極く当たり前の結果だと言っていい。次に、「友人」「祖父母」「アイドル」「アニメキャラ」「自分」「先生」と続いた。そこで、全員に自由に書かせてみた。できあがったものから見てくれと持ってくる。まだ考え中という子もちらほらいる。次の時間までに必ず仕上げようと言って1時間目は終わる。
 先週の出張で、このクラスは1日2時間になってしまったが、まとまったことをするのには丁度良い時間割になった。だから、2時間目には、6人一組の班に分け、それぞれの班で合評させ、入選作を2篇ずつ選んでもらった。
 最後に、代表選手14名に教室の前に出て発表して貰った。僕には聞き取りにくい内容でも、生徒は意外に良く反応していた。発表となるとみな緊張していたようだが、十分盛り上がった。一人2票の投票で、1,2,3位を決めた。優勝者は日頃余り目立たない男子生徒で、28点を獲得した。2位も男子で23点、3位も男子で18点だった。では、1位から紹介しよう。
 ☆☆☆1位(男子)
 暑くなりましたが、お変わりありませんか。あなたを見るたびに私の心が動いています。
 あなたは雨のように、この荒れ地を潤しています。
 風立ちぬ。はるか遠方のあなた、私はずっとあなたが帰るのを待っていました。
 ☆☆2位(男子)
 拝啓 愛しい人
 風光る。私のそばに舞い降りる。天使のごとき君。花弁のごとく舞う。
 敬具 君を思う僕
 ☆3位(男子)
 人混みであなたの顔を見て、ひとりで恋しく思い始めた。あなたを恋しく思うとき、あなたは心の中にいるのだ。あなたを恋しく思うとき、あなたは目の前に浮かぶのだ。あなたを恋しく思うとき、あなたは頭の中に存在するのだ。あなたを恋しく思うとき、あなたはゆっくりと近付いてきたのだ。
 
 成績を坡表したとき、女子から意外そうな声が上がった。男の子の方が却って率直に真情を吐露したからだろうか。

瀋陽日記ー出張

 出張と言っていいのだろうか。明日早くに北京に行くことになっている。
 日本語教育に携わる人々の全国会議のようなものだ。土曜日は今や全国手間稀になってきた授業があるので、教務課に頼んで時間割を変更して貰った。つまり、明日の二コマは来週に組み込まれる。そのまますべてやると週19時間になる。やっぱりハードだ。漢魏の内容はまた、機会があったら紹介したい。

瀋陽日記ー劉暁慶

 劉暁慶は「不老婆」(老いない叔母さん)とも「億万富姐」(長者姐さん)とも称せられ、国民のほとんどがよく知っている女優である。日本で言えばさしづめ「八千草薫」か「吉永小百合」といった女優を思い描いたら良いのだろうか。彼女はまた、知青(下放知識青年)から女優になった稀な人としても有名であるらしい。特に、彼女が「下郷」した先で体験したことを自伝的小説『我が初恋』に書いたことで、多くの人が黙して語らなかった、下郷中の日常が後生の世代にまで知られるようになった。
 彼女の名を教えてくれた学生は「母が少し後の世代だが、共感することが多いと言って、彼女の本を愛読している」と言い、その中の一つの逸話を語ってくれた。
 「下放先の四川省達県専区宣漢県農場では、冬の寒さは並外れていた。知青の炊事場では朝粥を大釜で煮るのだが、越冬する蝿がその大釜の周りに真っ黒になるほど溢れていた。粥の蓋ばかりでなく、粥の中にも蝿の黒い塊が一杯散っている。その粥を分けて貰って食べなければならなかった。その他には食糧など何もなかったのだから。」と本の一節の又聞きを語ってくれた。
 1950年生まれの劉暁慶は1970年の年初、四川省宣漢県の農場に知青として派遣されることになる。その70年、僕は封鎖中の大学と大阪の私学の常勤講師というどっちつかずの立場を見切って、兵庫県の教師として尼崎に赴任することにした。その思想的な動機はいわば「私的な下放運動」だったと言っても良い。つまり、庶民の中に、普通の庶民・労働者の子弟の中に、被差別の立場にある人たちの中に入っていこうというものだった。だから、この「上山下郷」(下放運動)には並以上の親近感を持って数十年を過ごしてきたのだ。しかし、実態についてはほとんど知らなかったと言って良い。しかも、現在、53才以上の人(都市住民)なら誰でもが経験し、他の人には言えない重い物を持ちつっづけているということにも気づいてはいなかったのだ。